那覇市立病院 島袋 洋
アレーっ!卯年に因んで、以前にも書いたよ うな気がするが、もう12 年も経ってしまった か。多くの会員がいらっしゃるにも拘らず同一 人物がまたまた書いても宜しいのでしょうか、 と問い合わせた程です。
12 年前は将来を担う子供達、ボーイスカウ トの子供達と共に歩んでいこうと書きました。 昨年は『美ら島インターハイ2010』が開催さ れ、ボクシング競技は豊見城市の担当で、その 統括担当医師として次代を担う青少年達に関わ らせて頂きました。しかし、自分一人では何一 つできません。家族や職場の同僚、そして何よ りも南部地区医師会豊見城班の先生方の多大な るご理解とご協力に支えられてのことでした。
那覇市立病院に勤務して早10 年、それは実 質的に脳神経外科が開設された年で平成13 年 4 月1 日の日曜日でした。勤務直前に心無い、 超偉いお医者様に「お前達はお殿様の積りで来 たんだろう?」と言われたことから始まりまし た。当初は何のことだかよく理解できませんでしたが、救急患者が多いのは非常に良いことで すが、2 人で乗り込んでできることはオンコー ル体制でした。「2 人は当直もしないくせに、他 科の当直医に救急をさせて、脳出血しか診な い。」と言うのが、お殿様体制の超偉い先生の 本意でした。夜中に手術をし、朝はそのまま外 来患者を診て、そのまま夕方まで、そしてまた 緊急となると・・・。何を言われても耐えなけ ればならない状況下に在りました。そんな時の 励みは「これが公立病院の実態かも知れない が、必ずや報われることがある。」と口癖のよ うに言う、前院長に騙されて(?)10 年が経 ってしまった感があります。
早10 年、これからの10 年、当然定年退職で いない筈の自分ですが、市立病院は地域に愛さ れる病院として存続し、患者さんにとっては安 心して診て貰える病院、職員にとっては働きが いのある職場、アメニティーも含めて笑顔の絶 えない明るい病院になっていると思います。その ためには自分達の力で病院の建替も、先々の事 業展開もでき、次世代へバトンタッチができる ような組織風土にしていかなければなりません。
既に30 万人を超えた那覇市も近々に中核市 になると思います。保健行政も市単独で執行し ていかなければなりません。市立病院も市の 「保健所が処理する事務」の一部を担うことに なる筈です。人材(特に医師や保健師)につい ては一時的に混乱しても、数年もあれば落ち着 きますでしょう。「那覇市保健所」の設置によ り予防医療で市民の健康管理、未病予防の観点 から非常に好ましいことだと思います。
そして100 年後、余程のことがない限り百年 経っても人体には大きな変化はないと思いま す。国民の健康管理簿は全てが電子化され、日 本国の経営状態・政治状況に大きな変化がない 限り、国民皆保険は更に充実し、北欧よりも進 んだ医療行政が取り入れられていましょうか。 沖縄県では基地がなくなり、綺麗な海と空が眼 前に広がるメディカル・リゾートのメッカとな り、世界各国で活躍しているウチナーンチュ (沖縄人)が宣伝・営業マンとして兼務してい るでしょう。
医療機関を受診するに携帯電話で連絡してい る傍らから画面には診療情報が映し出され、救 急車や自家用車で当該医療機関をドライブスル ーの如き特殊なカプセルを通るだけで種々の検 査機器が作動し、診断され、処方も車内からそ のまま受け取り帰宅するのが当たり前になりま しょうか。救急患者も搬送されたと同時に特殊 なカプセルの中で既に診断が付き、カプセルご と一般療養管理室(所謂病棟)、集中治療管理 室に移動し、手術が必要な場合は、手術室では 既にロボットが待ち受け、器械は勿論、必要な 臓器も既に人工臓器が準備されている、と言う 具合になるのでしょうか。
あ〜ぁ、やっぱりまたしても初夢でしたか。 100 年先までは見たくない。秦の始皇帝も不老 長寿の薬を欲しがっていたようですが、そのよ うなものはない方がよい。本当に夢までなくな ってしまうような気がします。今年も厚かまし く頑張っちゃいましょう。