ハートライフ病院 久場 良也
アラフォー(around forty)世代の女性がTV や職場で活躍しています。これに対抗して私は 当直明けのくたびれや運動後の筋肉痛の言い訳 をアラカン(around 還暦)だからと称してきま した。このたび医師会より干支に因んでの原稿 依頼があり、口ではアラカンと言っていました が、外見はともかく、気持ちは40 代の気分だっ たのでショックを受けています。これからも生 涯現役を貫こうと考えていましたが、周りの足 手まといになっていないか気になってきました。
私は沖縄に帰ってきて約13 年になりました が、人生の半分は鳥取大学を中心とした山陰で 過ごしたため未だ関西弁が抜けません。この間 私は麻酔、集中治療を専門としてやってきまし た。麻酔科を選んだのは特に理由はなく、ビー ルと同じで「とりあえず」という気持ちでし た。当初麻酔標榜医を取ったら別の科に変わろ うと考えていたのですが、赴任した病院で重症 患者の管理に苦労し、自分の未熟さと集中治療 の重要性を痛感したため大学に戻り、麻酔と集 中治療の研修を本格的に始めました。その後は 麻酔専門医試験、集中治療専門医試験の勉強に 専念しながらペインクリニック、救急医療に手 を染め、気がついたら学位のために臨床実験や 学会発表、ペーパー書きの毎日でした。その間 を振り返ってみるとステップアップ(本人の自 覚はありませんでしたが)のための目標を次々 クリアすることに専念した比較的充実した毎日 でした。学位が終わる頃に関連病院でICU を 始めるために赴任し、その後数年間は手術室の 設計や麻酔科、ICU の運営、心カテの手伝い等 当時の私とっての適度な忙しさと同級生や他職 種との交流を深めた楽しい時期でした(スキー や院内旅行など一番飲んで遊んだような気がし ます)。そして将来に対する漠然とした不安の 中で緩やかに時間は過ぎていきました。
沖縄に帰る事を考え始めたのは母の突然の死 によって「親孝行したいときに親はいないので は」という思いが強くなったからです。しかし 帰ってみると時既に遅く、続いて祖母、父も母 の後を追うように亡くなりました。一方仕事の 面では3 人いた麻酔科医が私一人になり、琉球 大学麻酔科の協力を得て麻酔業務をこなすとい う苦しい状況が続きました。そんな中私のモチ ベーションを支えたものが2 つありました。一 つは敗血症性ショックに対するエンドトキシン 吸着療法(PMX)です。大腸穿孔に合併した 敗血症性ショックに対するPMX の効果を実感 して以来、集中治療の有効な治療手段としての 血液浄化法に興味を持ち、可能な限り深夜でも 敗血症性ショックの治療に関わり、学会発表、 論文執筆に努めました。もう一つは救急救命士 の教育です。県内のある報告会で北部の救命士 の厳しい業務、不十分な研修状況の発表を聞い て、地域により実態があまりに違うことを感じ、救命士の向上心に応え、ともに学ぶ環境づ くりを考えました。地域の救命士の病院実習を 積極的に受け入れ顔見知りとなり、非番の日に は消防に出かけ勉強会や一緒に救急活動を実践 しました。初めは地域の消防との関係でした が、メディカルコントロール協議会(MC)が 始まるとそれは中部、南部に広がり、その後の 気管挿管実習と相まって県内各地の消防に広が りました。また心肺蘇生法のコースや外傷コー スのインストラクターとしての活動により救命 士との関係はますます深くなっています。
昨年、還暦を前にして救急功労者総務大臣表 彰を受けました。その内容は救命士教育、救急 医療の底辺拡大に貢献したというものでした。 自分が表彰されたことに未だ躊躇しています が、アラカンで頑張ったことへのご褒美と考え ています。これからは好きなワインを少しだけ 減らし、ダイエットに勤め、周りの迷惑になら ないよう体力のある限り更なる精進に努めたい と考える今日この頃です。