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私のトリビア:沖縄では戦後も空襲警報がなっていた。

太田敏久

大浜第一病院 太田 敏久

皆様明けましておめでとうございます。

私は1951 年、昭和26 年の卯年生まれです。 いよいよ来てしまいます。還暦が!

30、40 はなんとなくやり過ごせたのですが、 50 を過ぎる頃から年齢が気になってきます。な にせ87 歳の母からも年寄りのように見られる のですから。「仲間にするんじゃない」という 気持ちですが、60 歳は眼の前です。

県医師会からこの文章の依頼があったとき、 何を書こうかとあれこれ考えましたが、お正月 にふさわしい題材が見つかりません。しかし折 角の機会ですので、以前から気になっていた事 を調べてみようと思い立ちました。それは子供 のころの「空襲警報」の思い出です。

夏の暑い夜、といっても子供が起きている時 間ですので9 時頃だったと思います。サイレン がなり、それを合図に電灯を消すのです。我が 家は隣との距離が1m もなく窓を開けると隣も 窓が開いており、暗闇の中で大人たちがおしゃ べりをしていた記憶が残っています。

灯火管制下の様子を書いた新聞記事を読んだ 覚えもあります。その記事を探そうと、まずは ネットで「灯火管制沖縄」と入力してみると 関連する記事がありました。沖縄市の広報誌 「おきなわ(No.344)平成15 年2 月号」の「風 のスケッチ」です。その記事を引用させてもら いますと、『1950 年6 月に朝鮮戦争が勃発、沖 縄は米軍の前線基地と化し、7 月には軍命によ り沖縄民政府が灯火管制実施計画を樹立、同月 から灯火管制が行われた。朝鮮戦争後も「敵の 侵略から住民の生命と財産を守るため」に灯火 管制は実施され、59 年2 月12 日の晩に行われ た灯火管制の状況を、米軍機で視察した報道関 係者が次のようにレポートしている。嘉手納基 地を飛び立った米軍機がコザ上空へさしかかる と、基地の街の灯がバタバタと消え下界の消灯 が始まった。米軍機は南へ。牧港、那覇の街は 墨をぬったようにまっ暗だが那覇を過ぎ、農村 地帯に入ると点々と灯りが見える。飛行機の爆 音に驚いてか、その上空にさしかかるとパッパ ッと次々に電気が消されていく。(再度)那覇 上空に入った時、管制解除。一斉に電灯やネオ ンが点灯され、街や村は再び明るさを取り戻し た。』その記事を探して県立図書館へ行くと 1959 年2 月13 日付の琉球新報夕刊にありまし た。「全琉15 分間まっ暗ヤミ成績よい昨夜の 灯火管制」という見出しの記事でした。見出し に続いて「米軍による灯火管制で12 日夜8 時 からの15 分間、全琉は光を失ったまま暗ヤミの島々と化した。これは去る10 日から開始さ れた在琉米陸空軍によって開始された野戦演習 「オペレーションキーストン」の一つとして行 われたもの。記者ら報道陣を乗せた輸送機C- 47 は灯火管制下の沖縄上空を飛んだ。「総体的 に良い成績だ」と軍では喜んでいる」とあり、 先のレポートに続いています。1950 年代から 60 年代は沖縄の周辺では朝鮮戦争、台湾での 国民党軍と中国共産党軍との戦争、冷戦、ベト ナム戦争、県内では米軍から由来する事件や政 治的な圧力など決して平和な時代ではなかった ことが改めて感じさせられました。さてありが ちな締めとなりますが、卯年の今年が平和で、 輝かしい未来へウサギのようにジャンプできる よう願いつつこの文を終わります。