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周りの変化に思う

大城一夫

平安病院 大城 一夫

今年還暦を迎える平安病院の大城です。病院 内には季節によっていろいろな草花が咲きま す。ハイビスカス、ブーゲンビリア、クロトン など色鮮やかで見る人の目を楽しませてくれま す。病院のまわり西側には、雑木林が少しあ り、いろいろな野鳥が見られます。メジロ、ハ ト、ヒヨドリ、外来種と思われる頭が白い小鳥 など。その他、まれに、コウモリやマングース も見られます。まわりは区画整理が急激に進んでいて緑が少なくなったため、住み家を失った 生き物が集まってきたのかもしれません。

病院のまわりは西側を除いてパワーショベル で丘を削り、ダンプカーで土を搬出する作業が 続いています。整地が済んだところには大型ス ーパーや道路もでき、買い物や通勤には便利に なりました。この地域では、区画整理に伴い遺 骨収集も行われています。NPO による那覇市 真嘉比地区の遺骨収集作業が終了したあと、こ こ浦添市の経塚地区でも遺骨収集が行われてい ます。

真嘉比地区は去った大戦の激戦地の近くで、 私の育った所でもあります。南側に「ハーフム ーン」と呼ばれた丘があり、その丘の造成に伴 い遺骨収集が行われました。私が幼い頃その丘 に登ると、那覇の市街地を一望することができ ました。小学生の頃、父親とよく夜景を見に行 ったことを覚えています。その丘のまわりは、 子供達の遊び場でした。小学生の頃は学校から 帰ってきたら、かばんを家に置いて外へ飛び出 し、暗くなるまで遊んでいました。

ある日友達の芋畑の近くで長さ20cm ほどの 不発弾を見つけ後部を爪でこすって手を怪我し たことがありました。後部が勢いよく発火した ので、びっくりしました。畑の芋の葉をこねて 傷口に当てどうにか止血することができました。

不発弾といいますと、1970 年代の、那覇市 小禄の幼稚園前での、不発弾の爆発事故を思い 出します。幼児を含む4 人が死亡、多数が重軽 傷を負う大事故でした。たまたま爆発の数十分 後に現場の近くを通ったので実際の現場を見る ことができました。大きな穴ができ、工事現場 の鉄骨などが数十m も飛ばされていました。

現在でも沖縄のあちらこちらで去った大戦で 置き忘れた不発弾がみつかります。私は当院の 周りでの造成作業を見るたびに、あの不発弾事 故のことを思い出します。まだまだ造成作業は 途中ですがすでにアパートなどがどんどん増え て、周りは一変しています。

私の住んでいた真嘉比地区も造成が進んで、 小中高と育ったかつての自分の家が何処にあったのか分からないほど変わっています。かつて の自分の家からはアメリカ軍の牧港住宅がよく 見えました。クリスマスの時期になると、将校 の住んでいる各住宅の居間にはイルミネーショ ンで飾られた、クリスマスツリーが見られまし た。夏にはプールの飛び込み台から飛び込む姿 などが見られました。私は父が測量に使ってい る望遠鏡を勝手に持ち出し、プールの様子を見 たことがありました。飛び込み台に立つビキニ 姿の女性の姿を見たときには、胸がドキとした のを覚えています。いまはそのようなのぞきの 趣味はないですが。

また金網越しに子供同士おもちゃなどの物々 交換をしたのを覚えています。アメリカ人の子 供達には日本語は通じませんので、友達から一 つの英単語を教えてもらいました。それはイク スチェンジ:交換(exchange)いう言葉で私 が覚えた初めての実用英単語でした。

沖縄も豊かになりました。経済だけではな く、いろいろな面で大きな変化がありました。 今年もいろいろな分野で変わっていくでしょ う。時には急激な変化も必要でしょうが、でき れば大方の人々がついて行けるような適度な変 化であってほしいものです。