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60 歳で思うこと−二度の恐怖

伊良部勇栄

南部訪問診療所 伊良部 勇栄

今年で60 歳になった!人生の3 分の2 を生 きたことになる。中学生のころ、「悲しき60 歳」という歌がラジオから流れていた。若い頃 には、想像もできなかったが、その時がくる と、まあ、こんなものかと思う。先が短くなっ たせいか、昔のことを、よく思い出すようにな った。その中でも怖かった事が、二度あった。

一度目は小学生の頃に宮古島を襲ったサラ台 風である。1959 年9 月に上陸し、死者47 人、 行方不明者52 人、負傷者509 人をだし、宮古 島の経済活動は全滅した。

家はぐらぐらと揺れ、戸の隙間から見ると屋 根瓦が木の葉のように飛んでいた。小生の父は 定期船の船長をしていたが、船という船は沈没 し、仕事はなくなり、家族は沖縄島へ移住せざ るをえなくなった。

二度目の恐怖は飛行機事故であった。1985 年8 月12 日、日本航空123 便が御巣鷹の尾根 に墜落した。丁度、この日、小生は家族4 人でデイズニーランドで夏休みを過ごし、羽田空港 にいた。沖縄行きの便は混んでおり、大阪で乗 り換えの航路になるかもしれないと日本航空の 職員にいわれた。その日の夜に医局の大事な会 合があったため、両方の便に予約を入れ、飛行 場で待機した。運よく、本当に運良く沖縄直行 便に乗る事ができた。大阪乗り換え便は123 便 であった。

人は偶然に生かされる。しかし、偶然に助け られるかもしれない。もし、サラ台風がなく て、小生の沖縄島への移住がなかったら、那覇 高への入学はなかっただろう。那覇高での友人 達との切磋琢磨がなければ、国費の医学に合格 はできなかっただろう。

123 便の墜落後、同僚が「飛行機には乗らな い。」と言い出した。おかげで、大学医局の抗 生物質の治験責任者となり、毎週東京に行く羽 目になった。しかし、その頃東京で学んだこと が、現在の小生の専門性の大きな柱となった。

「ピンチのあとにチャンスあり。」とはよく 言われるが、人生の2 回のピンチにはもう懲り ているので、あと30 年は「ピンチはなくても チャンスあり。」をモットーにしていきたい。