沖縄県立宮古病院副院長 上原 哲夫
いつまでも若いつもりで兎のように飛び跳ね ていたら、5 回の干支を迎え、先輩たちのよう に、もう赤いちゃんちゃんこを着るような年に なった。嫌だ嫌だとだだをこねる訳にも行か ず、孫もできたのだからしょうがないかと自分 を納得させ、生涯現役を貫くには体力もつけん といかんばいと、ホークス流に老体に鞭を打ち つつも、なかなかままならない体力の回復に、 忍び寄る老化を感じる今日この頃です。50 歳 半ばの宮古島への単身赴任は、降ってわいたよ うでもあったが、何かがむしゃらに手術や管理 職をこなしているうちに、はや5 年目になって しまった。18 歳の時、国費留学生としてパス ポートで本土に渡った学生時代以来の一人暮ら しで、自分をあるいは自分の人生を見つめ直す 最良の時間かもしれないと思いつつも、座って いるだけで飯が出てくる我が家とは違い、今日 の夕飯はどうしようかとか、洗濯物を干したり畳んだりする日々の生活は、多忙であればある 程それほど憔悴する事もなく、時折の酒宴や週 末のゴルフ等で気分転換はできるようになって いた。年々良くなっていく経営状況では、赤字 が半分に減り、ついには黒字となった時には、 院長と職員一同で祝杯をあげたものである。離 島においても本島と同等の治療が受けられるよ うにと、大学や県立病院から多くのスタッフが ローテーションし、地元の医療者とともに地域 医療を守るという一員になれた事もうれしい事 である。週2 回の乳腺外来を開設し、女性放射 線科技師を中心にマンモグラーフィーを推進 し、乳癌の2 次検診施設として手術症例も増え ていった。救急や内視鏡外科、がんの手術等を 若い外科医と行えるのは楽しみでもあった。だ んだんと育っていくのを見ると、もうバトンを 渡してもいいのかと思うが、先生来年も居てと 言われると、家族との板挟みになってしまい、 なかなか憂鬱であるが、この還暦は節目かもし れない。
全国各地で医師不足が叫ばれ、ここ宮古病院 でも眼科医の不在や脳外科医の不足、ローテー ター不足で2 回目の赴任等、外科医や内科医の 減少など地域医療の維持に困難が生じてきてい る。一昨年愛知県から50 代の脳外科専門医が、 宮古病院のホームページを見て単身赴任し、2 年2 ヶ月も頑張っていただいた。医療に専念し ながらも宮古島の風景写真を撮る程島を愛し楽 しまれていた。単身赴任よりは夫婦や家族でこ られると、ゆったりした島の時間の流れと美し い自然の空間は、ハワイと思ってしまえばリゾ ートでもあるので、ぜひお勧めしたい。半田先 生が帰った後は、官民協力という形で宮古島の 住民を守るために、島に一人しかいない脳外科 医山本先生を当院に配属して戴いた宮古島徳洲 会病院のご高配に大変感謝、感激です。時間と ゆとりのある多くの諸先輩や若いドクターが、 人生の中の一時期を、週1 回、月1 回とか、あ るいは数ヶ月、数年とか、自然の美しい島々 で、自分の得意分野の医療を提供していただけ れば、離島の住民にとっては、至福の喜びであるし、離島医療の継続性にも大きな力となりう る。全国各地からドクターを離島に呼ぼうと、 沖縄県も年間数名の医者を、離島病院の現場見 学に招待している。そのシステムに乗って、晩 年は離島で医療を手伝いながら自然を満喫する と言う大きな離島への潮流になるのを願うばか りである。