クリニックひがし野院長 島袋 敏秀
ただいま琉大病院より帰院し外来診療中。実 は今年の4 月直腸Ca の診断にて現在2 週1 回に 化学療法と月〜金曜の放射線療法中である。開 業3 年目にて今現在借金の塊みたいな病院で す。主治医の御計らいにて外来が見れるように してもらっている次第。テネスムスや患部の痛 みなどにて外来診療に無理が生じるまで、頑張 るつもりである。さて本題に戻って若手勤務医 へ送るアドバイス、エールなどとなってます が、とりあえず開業までの私の生き様で参考に なればと書いてみる。私は、28 歳で琉大医学部 入学した。それまで医大受験浪人中でありなが ら通常の青春を謳歌し、遊び歩いていた。入学 時2 児の父となっていた。最初の子が出来たと 聞いた時、はじめてはっと我に返り自分の立場 を認識した。
このままで人生終われない、初心に帰り‘医 者にならなければ’である。両方の両親を説得 し、御願いし2 年間の約束にて再度真剣に浪人 を始め、約束の2 年目に合格できた。学生時代 は、アルバイトに明け暮れたが何とか現役で卒 業でき、現役で国試も取れた。同級生たちは、 卒業旅行などとヨーロッパ、アメリカと飛び立 ったが、その時3 児の父になっていた自分には その余裕など無くて、日当5 千円にて中部徳洲 会病院に御世話になった。そこは研修医が自分 ひとりで、まるで野戦病院のように四六時中救 急車が来院した。参考書を読みながらなどとて もじゃない。耳学問、目学問にて通り過ぎ、夜 中や患者が落ち着いたときに始めて片手間に本 が読めた。落ち着いて読める訳ないからとても 実にならず、親切な先輩に教えを請うことが出 来なんとか研修医を卒業できた。その間内科の 研修医でありながら外科の緊急OPe に緊急呼 び出し受けたり、結構な多忙であった。しかし 振り返ってみると、そのため短期間のうちに多 様な貴重な症例を経験することが出来、今の自 分があると思いありがたかった。私は医者とは 人の生き死が診れる者との認識が元来あり、そ のためには自分の専攻は循環器か脳外科と考え ていた。しかしながら青春の遺産で25 歳の頃 利き手の手首の腱、動脈などすべて断裂してし まい、主治医にもう右手は使えません、左きき になれば!今からでも遅くないよと言われかな り悩み落胆したが、やるしかないのでその後よ り左ききになるため頑張ってきた。これでは脳 外科など繊細なOPe が出来るわけが無く内科 的に何とか生き死が診れる循環器を専攻した。 手首の手術入院中も浪人中も左ききになるため の猛特訓のおかげで何とか心カテ、PCI も人な みに熟せたと思っている。現在は両刀使いであ る。で現在にいたった。さて今でも思う事だが 医者は、耳学問、見学問、そしてその手技を先 輩諸先生から盗むものである。先輩緒先生によ ってはかなり治療方針、治療方法が異なるもの である。そこにはそれぞれの性格、個性が見て 取れるように思う。それ故そう簡単には教えを 請うでも教えてくれないものである。これは意 地悪ではない。自分が長年培ってきた治療方 針、治療方法、そう簡単には自分も教えようと は思はない。金魚の糞のようにまとわりつきや る気、必死さが感じられる研修医でなければで ある。最近研修医には、まったくそれが感じら れない、あそこの病院は何も教えてくれないか らと医局に報告しているそうな、其れよりも先 輩諸先生が教えたくなるような性格や個性、や る気を発しているかだと思う。最後に自分の医 者像―可能な限り生きて返す、歩いて来院した 人は歩いて返す、少なくともADL その他可能 な限り改善を願うである。そのためにはまず自 分の力量を知る必要がある。早期に諸先輩への コンサルト、そして適切な判断にて必要なら高 度医療の他院(琉大病院、中部病院など)への 紹介も遅れないようにするである。皆さん寝る 暇も惜しんで頑張ってください。私も頑張って いくつもりです。これもまた自分の人生。