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開業顛末記

外間英之

外間眼科医院崇元寺 外間 英之

志があるのだかないのだか、幼少時より祖父 や父の後を継ぎ眼科医院を開業することを目標 にしていました。父は自宅開業でしたので仕事 や患者さんの話は折に触れよく聞かされていま したし、祖父も「君で3 代目だ、頑張りなさい よー。」とよくいわれていましたので、当然の ように考えていたのです。ですから大学の医局 に入った当初もなるべく早く臨床を覚え、手術 手技を習得してすぐに開業してしまおうなどと 思っていました。この辺が自分の志の低さを実 感する所以ですが、さすがに医局の先輩方はお 見通しでした。そんな私の計画は露と消え、臨 床はもとより実験や臨床統計、学会発表のあと は矢のような論文の催促と大変忙しい日々を過 ごさせていただきました。よく体がもったな〜 と思いますが、おかげで学位もいただきました し、何より眼科の中でも多岐にわたる各専門分 野の先生方に学べたことは大きな財産になりま した。急がばまわれ、石の上にも3 年ですね。

沖縄には平成18 年1 月に帰りました。地元 ではありますが県内の医療事情もわからず、医 療関係の知人も少ないという寂しい事情から、 琉球大学の眼科に入局させていただき約2 年間 県立北部病院と沖縄赤十字病院でお世話になり ました。どちらも眼科は一人体制でしたので忙 しい時期もありましたが、医局の先生や開業医 の先生と顔見知りになり、とても有意義であっ たと思います。

さていよいよ開業準備に入り、まずは候補地 選びです。本来であれば父の外間眼科医院をそ のまま引き継ぐことが最良ですが、日帰り手術 をやりたいという私の希望とはなかなか立地が 合いません。しかし、いずれ父の患者さんを引 き受けたいという考えもあり、なるべく近隣で 探していたところ、幸いにも希望通りの物件が 実家の隣町である泊にみつかり、快く貸してい ただけることになりました。思えば祖父が牧志 に父が前島に開業し、私が泊です。時代の流れ とともに外間眼科医院は那覇の繁華街に向かっ て500m づつ移動しているのです。我が子はど こにいくのでしょうか。

それから半年間は勤務医をしながら週に1 〜 2 回の打ち合わせ(その後の飲み会も含む)や 銀行通いと大変でしたが、目標に向かっている 充実感でいっぱいでした。特に内装の設計は楽 しく、今まで温めていたアイデアが現実になる 喜びはひとしおです。それに気に入った機械で 気のあったスタッフと仕事ができるなんて夢の ようです。

そんなこんなで平成20 年7 月10 日に開業し て1 年半が経ちました。初めの1 年は日常の診 療・手術を問題なくできるように施設整備に追 われていました。スタッフの採用や機材の購 入、診療所のルール作り、果てはホームページ や看板などの宣伝までおおよそ医療とは関係な いようなことばかりでしたが、比較的楽しみな がらやっていました。昔からコツコツと何かを 作る作業は好きでしたので性に合っていたので しょう。しかし1 年も経過しますと莫大な借金 の返済も始まり、今度は経営に追われておりま す。いまだに毎日の患者数や手術件数には一喜 一憂の日々ですが何とかやっています。

開業して変わったことは第一に患者さんでし ょうか。医局からの出張では定期的に異動がありますので、その場で懸命にやっていてもその 後がわかりません。特に苦労した患者さんは、 今頃どうしているかなーなんて思い出します。 しかし開業してからは、今後来てくれるかぎり ずっと責任を持って診なくてはいけません。治 らない、治せない患者さんともずっと付き合わ なければいけません。身の引き締まる思いで す。「あんたのお祖父さんから通っているよ。 あんたで3 人目さ〜。よろしくお願いします よ。」なんてお年寄りもいます。「○○さんか ら、上等って勧められてきたよ。」という患者 さんも来ます。泣けてくるほどうれしくなりま すし、ずっしりと重く感じることもあります。 何事もなければ30 年はこの生活が続くのです。 父を含め、先輩方の苦労が少しはわかった気が します。

次に変わったことはコツコツ勉強するように なったことです。今まで自由に学会にも顔を出 していましたが、なかなか不自由になりまし た。必然的に医学雑誌や教科書を読みあさって います。すると目からウロコ!なことが多々あ るのです。情けない限り。これからも先端とま ではいかなくとも常に新しい治療や技術にチャ レンジしていきたいと思います。また、開業時 の挨拶に地域医療への貢献などと軽く言いまし たが、大変そうです。そちらの方も今後よろし くお願いいたします。