沖縄第一病院 名渡山 愛雄
2 回目の寅年(昭和37 年)
大学卒業後、東京のJR の秋葉原と浅草橋 のほぼ中間にある三井厚生病院(現三井記念 病院)でインターンを終え耳鼻咽喉科に入 る。上野に近い下町育ちの親友に誘われてこ の病院へ16 年居着くことになった。
昭和41 年2 月、外科にいた大学の先輩か ら台東区民スキー教室の救護ドクター(Dr.) として参加してほしいという。私には突飛な 依頼である。沖縄育ちの雪を知らないものに 勤まるのかどうかと躊躇したが先輩は何も心 配することはないから大丈夫という。普通ス キーDr.は外科か、または整形外科が主であ り耳鼻科では珍しいと思われたが、これも運 命とあきらめた。私の仕事は捻挫や外傷など に対処すること。医療器具は準備されてあっ ても不安を抱えつつ土曜日の夜行バスで出 発。連休を利用した2 泊3 日の行程。場所は 長野県霧ヶ峰高原スキー場。スロープは緩や かで初心者向けのコースだという。ただ待機 しているのもいやだし、初心者に交じって救 護班の腕章を付け、スキー講習をこっそり受 ける。最初はボーゲンといって弓型に制動し ながら滑ることから始める訳であるが、それ でも初心者同士はぶつかったり、転倒して雪 だるまのようになる。そのうち互いに打ち解 けてゆくのがわかる。私もスキーのスピード が出ると恐怖のためへっぴり腰になると転倒 しやすく、全身を打撲することもある。でも Dr.であるから弱みを見せられず頑張る。次 に斜滑降、回転、直滑降と進むが基本はやは りボーゲンでスキーを制動できるように滑る と楽しくなってくる。時々Dr.と呼び掛けら れると一瞬、怪我人でも出たのかとドキッと させられるがインストラクター(スキー指導 員)の指導が良く、危惧していたトラブルも 少なかった。
東京に戻るバスの中では歌を順次歌ったり 楽しんでいたが突然イギリスのBOAC 航空機 や日本のANA 機が相次いで羽田沖に墜落の ニュースにバス内の空気は一変したことを覚 えている。結局先の先輩も多忙のため、君に 2 シーズンまかせると云われスキーの虜とな った。少し上達したのでレンタルスキーに飽 き足らずスキー一式を揃えた。日曜日には一 人で新潟県の中里スキー場で日帰りスキーを 楽しんだ。旧国鉄上野駅から始発電車に乗り 旧国鉄越後中里駅で降りればスキー場は目前 にあり、とても便利だ。ときには院内のスキ ー愛好者を募って八方尾根、菅平、それから 志賀高原から万座スキー場をめざすスキーコ ースにも挑戦した。いずれも骨折はしない自 信はついたようだ。骨折して同僚に迷惑はか けないよう注意したのは云うまでもない。
一方週1 日の研修日をもらい耳小骨筋反射 の研究のため当時の東京教育大学(現筑波大 学)聴覚研究施設國府台分校(千葉県市川 市)の星龍雄先生(現筑波大学名誉教授)の 指導を受ける。折りしも昭和39 年から同40 年にかけて風疹が沖縄全島に大流行。眼疾 患、心疾患などを含む難聴児が600 名に及び (その内難聴児400 名)社会問題となる。日 本復帰前でありこの國府台分校が、当時の琉 球政府(厚生局)と日本政府(厚生省)の難 聴児教育の研修施設として選ばれ、沖縄から 聾学校や各地の難聴学級を担当している大勢 の先生方が研修にみえていた。
この研修指導の中心は星先生で、沖縄聴覚 障害児福祉センター(当時首里石嶺町)の開 所にあたり、総理府から技術指導として私が 昭和46 年1 月〜 3 月まで派遣されることに なった。短期間であったが風疹難聴児の聴力 検査に携わった。それ以前に星先生やその他 の先生方は日本政府の検診団として沖縄に来られ、風疹による難聴児を早期に見つけ、補 聴器を装着して教育することが最善の方法で あった。市川で研修を受けた先生方が沖縄に 戻り、実際にその子供達と母親との涙ぐまし い三位一体の教育現場をみることになった。 小柳ルミ子が歌っている「瀬戸の花嫁」や 「わたしの城下町」を聞くと当時のことが走 馬燈のように想い出される。
研修の先生の中にはかつて対馬丸で疎開児 童として九死に一生の思いで生還されたG 先 生がおられた。先生は56 年前の昨年、鹿児 島の悪石島での慰霊祭に出席されたが、その 時私は浦添てだこホールで合唱組曲「海のト ランペット」−対馬丸の子供たち−(池辺晋 一郎作曲、指揮)を合唱団の一員として参加 し鎮魂を共有できた。
3 回目の寅年(昭和49 年)
長男が3 歳になり、更に家族が増えそうな ので思い切って一軒家を求めて千葉市のはず れの新興タウンに引っ越した。近くに田圃や 大きな公園があり、それは空気は美味しく感 じられはしたが、通勤時間が電車とバスを乗 り継いで1 時間以上、時間に追われる毎日が 6 年続いた。
昭和55 年4 月当時、与儀にあった琉球大 学保健学部耳鼻咽喉科の野田寛助教授(現同 医学部名誉教授)の薦めで那覇市立病院に赴 任。慢性中耳炎ことに真珠腫性中耳炎の手術 治療を中心に診療に従事する。
4 回目の寅年(昭和61 年)
多忙な日を送っていたが2 年後の昭和63 年 外科の川野幸志先生(現外科部長)と趣味の 話になり「沖縄にもスキー連盟があるんです よ」と事も無げに云われた。自分には沖縄に 帰ればスキーは出来ないものと決めてかかっ ていただけに驚きの声を上げる程嬉しかった。 先生は沖縄県スキー連盟の会員であった。そ して大学時代から滑っていたDr.が市立病院 にあと2 名いるそうだ。川野先生を中心に内 科の當間茂樹先生(現とうま内科)、整形外科 の山里二朗先生(現はんびい整形外科)私4 名が集まり沖縄県スキー連盟主催のスキーツ アー(4 泊5 日)に参加することが決まった。 沖縄県民体育大会冬季大会スキー競技会と国 民体育大会冬季大会スキー競技会県予選が毎 年行われており、私は初めてスキー競技を見 た。14、5 年ぶりである。北海道千歳空港か ら支笏湖を右に見ながら西に向い倶知安を通 ってニセコに到着。約3 時間のバス旅行であ る。私を除いて3 名のDr.の技量はすでに1 級 であり私はスキー講習を受けることにした。 あたかも自転車に何10 年ぶりに乗るようなも ので、最初はおぼつかなかったが、徐々にス キーに慣れ技量テスト(バッチテスト)3 級 に合格。その後連続8 シーズンのツアーに参 加した。
平成4 年(1992 年)には小学校4 年の次 男連れで参加。彼は技量テスト5 級から受け てその日のうちに3 級に合格しゴキゲンだっ た。私は平成5 年には同テストで2 級に合 格。その頃にはわたしもゴンドラでアンヌプ リ山に行き約1,000m の滑降コースを約10 回 挑んだ。頂上はpowder snow の舞う銀世界 であり、晴れた日には蝦夷富士と云われる羊 蹄山を左手に眺めながら一気に滑るスリルは 何ともいえない至福の時間を味わう。外気温 は− 5 ℃であるが体は感激で火照っている。 夜はニセコ温泉で体を休める。このスリルを 忘れられず平成20 年にも参加し第60 回沖縄 県民体育大会スキー競技ジャイアントスラロ ーム男子A の第1 位になった。(参加者は少 なかったが)
沖縄県スキー連盟勝山直文大会委員長 (豊見城中央病院放射線科)より賞状を受け 感激した。スポーツにはまるっきり弱い自分 が雪の急斜面をスキーで滑れるなんて不思議 に思う。80 歳までスキーがやれたらいいな と思っている。三浦雄一郎さんのお父さんの ように。
5 回目の寅年(平成10 年)
還暦の年は母の喘息と看病で慌ただしかっ た。平成15 年に定年退職を迎える。血筋は 争われないのか、生来アレルギー体質を受け 継いだため那覇市立病院の多くの先生はじめ その他の職員の方々に公私共にお世話になっ た。とりとめもない自分史の羅列のようにな ってしまった。父の情報が少ないので父につ いて親戚等に聞いたりしているが、もうその 年代の方も少なくなっている。
退職後は新垣哲先生の西武門病院で4 年 間、現在宮城信雄県医師会長の病院で働かせ て頂き感謝するとともに、今日まで学んだこ とを還元できたら幸いである。
高校同期の友人T と付き合っていると、ア メリカの作詩家Samuel Ullmann の「青春」 という詩の中に「青春とは人生のある期間を 言うのではなく、心の持ち方を言うのであ る」という言葉を思い出す。彼は学生時代か らスポーツ万能で現在もゴルフの他にオペラ に出たり、宮古島からわざわざ沖縄まで来て コーラスを楽しむなど青春を謳歌している。 今では私もコーラスを楽しんでいる。いつま でも青春の途上にいたいものである。