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心と精神医療

城間功旬

一銀クリニック 城間 功旬

精神科の病院に勤務していた頃、神経症の患 者さんから「精神科を受診するという悩みは、 自分の病状の悩みと同じくらい大きい。」と聞 かされ、「患者さんが気軽に受診できる診療所 を開設したい。」と思い、3 ヶ月後には、一銀通 り近くで、精神科診療所を開設した。昭和63 年7 月の事で、当時は「精神療法」の点数が低 く、「経営は成立たない。」と言われていたが、 33 歳と若く、「10 年やってみて成り立たなけれ ば、診療所を閉めて、また働きに出ればよい。」 と考えていた。

開院すると神経症の患者さんが多く受診して きたが、これまで精神科の患者さんの診療が主 だったため、神経症の患者さんの治療は、難し く感じた。まず初めに主に試みたのは「ロジャ ースの来談者中心療法」である。これは、患者 さんの話を遮らずに話したいだけ話をしてもら い、医師は聞くことに徹するという療法であ る。かなり忍耐が要求された。疲れると、自分 のイスにお地蔵さんを代わりに置いておきたい 気持ちだった。患者さんの家族からは「診察室 から出てきたときは、別人のように明るい顔に なっている」と喜ばれたが、それは一時のカタ ルシス効果で(それも治療上大切ではあるが) 帰宅後数日すると症状は元に戻ってしまうとい う例が多かった。本当の治癒に向かっていると は言い難いと感じていた。本当に困って、その 後、森田療法、自律訓練療法など数多くの本を 読み実践してみたが、やはり良くならない患者 さんがいる。「こんなにたくさんの本を読んだの によくならない患者さんがいるのは何故だろ う。」と、自問自答する日々が続いた。

2 年ほどたったある日、ふと気づいた。「心と は何か?心そのものが何か?ということを自分 が解っていない。」と。「精神医学をするものが 心そのものを解っていないとは。」と気づくと 「どうにか解決しなければいけない。」と居ても 立ってもいられない気持ちだった。治療の未熟 さもあり、暗く長いトンネルの中に居るようで あった。

そんな時「心そのものが何か?」を真剣に追 求しているといわれる「座禅」の事を知り、友 人の父上に紹介してもらい、平成3 年6 月よ り、日曜座禅会に通い始めた。約10 年間、自 分としては、真剣に取り組んでみたが、「心」 そのものを掴む事はできなかった。

その後も、暗く長いトンネルは続いている が、そのトンネルも4 〜 5 年前からは、ほんの 少しずつであるが、明るくなったような気がす る。ほんの少しだけ、以前より精神科の治療が 良くなったことによるものだと思う。「心その ものが何か」を掴めたわけではない。なんとな くそのイメージが少し湧いた程度でしかない。 大変僭越ながら私が思う「心」のイメージにつ いて述べさせていただきたい。

心とは、雲や水や粘土のように、もともと形 がなく、刺激を受けると様々な形に変わりうる もので、その変化してできた形自体は心そのも のではない。刺激を受けると、臨機応変にどん な形にも変化するというのが「心の性質(特 徴)」なのである。それは、雲が様々な形に変 化するのと同じ事である。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、の5 つの入 り口から情報が入ると思考に働き、その受け止 め方で、プラスの思考になるとプラスの感情の スイッチが押されプラスの感情が出る。逆にマ イナスの思考になると、マイナスの感情のスイ ッチが押されマイナスの感情が出る。このこと により心が「喜怒哀楽」という形をとっている のである。この「喜怒哀楽」にとらわれずに流 していけば、心はまた元の形のない状態に戻っ ていくのである。

しかし、この事が解らずに、マイナス思考に 「捕われ」て、スイッチが押され続けると、マイナス感情の形に心が留まり精神的エネルギー を消耗して、エネルギーレベルが低下し、不 安、うつ状態、幻覚、妄想、等の発症のきっか けとなりうるのである。心の病の状態に陥いる と、その心の形に留どまってしまい、まるで 「病という部屋」の中でウロウロ、オロオロす るばかりで、出口を探そうしても、なかなか出 口が見つからない状態が続く。変化した心の形 を元にもどすためには、病という部屋から出て いくためには、とらわれ続けている考えや行動 を修正して初めて、出口が見つかり、そこから 出てゆけるのである。心の病には「出口」があ ると思う。

医師は「あなたの病状からの出口は、この方 向ですよ。」と教えてあげる必要があり、それ が、治癒に向かってゆく事であると私は考えて いる。そのためには、患者さんがとらわれてい るマイナス思考を修正しマイナス感情にとらわ れないように指導していくと、心は元の自然な 形にもどり改善していくのであると、私は考え ている。

心とは幽玄にして無形なもので、これという 形は無く、どんな形にも成れるという性質で存 在しているものである。どんな形にも成りうる ものだから、マイナス思考、マイナス感情にと らわれ続けると、病という形もとりうる。だか ら、マイナス思考、マイナス感情にとらわれる ことなく流し、強い意志によって支え、理性で コントロールしてゆくべきものであると思う。 当たり前に、「心とは、こういうものである。」 という何かしらがあると思っていたが、これと いう形のあるものはみつけきれていない。しか し、心は無ではない。これという形をとらない だけで、いろんな形をとりうる存在として感じ ている。