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6 回目の寅年
あれやこれや その1

名渡山愛雄

沖縄第一病院 名渡山 愛雄

とうとうやって来たのである。というと、オ ーバーな表現であるが昭和20 年以前の大正か ら昭和1 桁生まれの先生方には“赤紙”いわゆ る戦争に駆り出される召集令状を思い浮かべる のではないだろうか。

民主党の鳩山政権が自民党麻生政権に変わり 医療界は、はたまた庶民生活は如何様になるの か懸念した矢先の昨年9 月上旬封書が届いた。 それも相次いで2 通である。1 通は御上からの もので、(自分は若いつもりでも)70 歳になっ たので今年の誕生日までに高齢者講習等通知書 を持って車両運転講習を受けるべしとの御達 し。もう1 通は県医師会から随筆寄稿の依頼で、 12 年前の還暦の時に同様の依頼をキャンセルし た前歴があり、その汚名?を返上すべく重い腰 を上げることに相なり筆をとることにした。

それ以来食事の時連れ合いが「最近食が細い けど何かあったの」と宣う。それで経緯を話し 「県医師会の先生方は名文家が多いけれど僕は 書くのがどうも苦手なんだ」と返事する。自分 の不安をよそに妻は「上手く書こうとするから 駄目なの、自分の周辺のことや趣味のことを書 けば」でやっと肩の荷が下りる。

父愛篤は大正元年の生まれであるから生きて いれば俳優の森繁久弥と同い年になる。沖縄県 立第二中学校(現那覇高校)を昭和5 年に卒業 し在学時代、野球選手として野球にのめり込み 過ぎて体を壊し母との結婚生活1 年目で他界。 父の顔は写真でしか知らない。父の遺品は蓄音 機と78 回転のレコードそれに二中時代の卒業 アルバムであった。音楽が好きだったようでヴ ェルディのオペラ「椿姫」の中の「乾杯の歌」 などのレコードをよく覚えている。今は卒業ア ルバムしか残っていないが、その中には父は義 父(故照屋義彰)に英語を習ったようだ。私は 以後母と祖父母に育てられた。

母千江は大正3 年、第1 次世界大戦(1914) の年、寅年生れである。寅年生れの女性は千人 針を縫わされ、それを身に付けた、兵隊は敵の 弾に中たらないよう武運長久の縁起をかついだ 訳である。母は時には防火訓練や銃後の竹槍の 訓練に出ていた。母は戦後「トドロ槌音ツチオト 飛び来る弾丸…から始まって…杉野は何処イズコ 杉野は ずや」で歌われる日露戦争時の文部省唱歌「廣瀬 中佐」をよく聴かせてくれた。沖縄サミットの 年(2000 年)に他界。

2004 年には、日露戦争100 周年沖縄大学又 吉盛清学級学外学習会「中国東北部(旧満州) の旅」に参加、旅順など激戦地の跡を辿った。 日露戦争は良きにつけ、悪しきにつけ先の戦争 に進んでしまったことを実感した。

2、3 歳の頃母の背中におぶさって見た映画 があった。昭和15 年の作品、宮沢賢治の童話 「風の又三郎」である。風が吹くと

  • どっどど どどうど どどうど どどう
  • 青いくるみも吹きとばせ
  • すっぱいかりん(りんご)も吹きとばせ
  • どっどど どどうど どどうど どどう

という風の歌が子供心に何かが迫って来て恐 ろしいシーンであり70 歳を過ぎた今でも私 の網膜や内耳の迷路に強烈に閉じ込められて いる。

昭和19 年8 月学童疎開が始まり、母と祖 母と3 名で国民学校1 年生として台湾に疎開 した。台中市の当時の新富国民学校に転校。 教室にはほとんど内地から来た児童で占めら れ、垢抜けしない沖縄の子供はいじめの対象 となった。私もその一人であり、よく泣かせ られて帰ったものである。幸いに担任の先生 が沖縄出身の川平という女の先生で何かと自 分の悲しみを受け止めて貰った憶えがある。 また、台中市で母と人力車に乗っていた時、 霧島昇の“誰か故郷を思わざる”を聴いた。

戦争が激しくなり台中の東成という田舎に移る。そこには大きな川や田圃があり川エ ビ、どじょうやナマズを採ったり、トロッコ (線路の上を走る工事車)に乗って遊んだ。

1 回目の寅年(昭和25 年)

父方の親戚に8 名兄弟姉妹の末っ子で丑年 であるが私とは同学年のKがいる。Kちゃん と呼んで遊んでいたが大人から、彼は叔父さ んに当たるのだよと云われ、子供心に不思議 であった。その彼から映画に誘われた。この 映画はスゴイそうだと云う。どんなに凄いの か?映画のタイトルは「暁の脱走」(池部良、 山口淑子主演)で、彼が云うには“キスイ ズ”が見られるという。イズとは宮古島の方 言では魚(イユ)である。彼の家は田舎の小 さな新聞社であるが映画が上映されると、内 容は伝わっていたが、私のような一人っ子で 奥手の子には理解出来なかった。戦争映画に 何でキスイユ(魚のキス)が出てくるのか皆 目想像できなかった。それがkiss であること をその時初めて教わった。とにかく当時はテ レビもなく情報が極めて少ない時代であっ た。今考えると反戦映画であり最後の小沢英 太郎の副官が主役の二人を機関銃で撃つシー ンは子供ながらに印象的であった。

後年、東京の三井記念病院に勤務していた とき、めまい、前庭疾患の指導をして下さっ た当時文部省(現文部科学省)近くにあった 虎ノ門病院耳鼻咽喉科の小松崎篤先生(現東 京医科歯科大学名誉教授)から、「沖縄へ帰 ったら耳鼻咽喉科医として脳腫瘍になる前の 聴神経腫瘍を見付けなさい」といわれた。先 生は沖縄で手術をして翌日には魚釣りを楽し みたいようであったが。

昭和55 年那覇市立病院に赴任し、幸いに も約束通り3 例を見付けることが出来た。1 例は東京で、他の2 例を沖縄で先生に手術し て頂いた。当時那覇市立病院には脳神経外科 は開設されておらず、やはり虎ノ門病院時代 懇意にしていた大門勝先生が活躍していた沖 縄県立中部病院脳神経外科で共同手術とな り、予定通り翌日は大門先生、同病院内科の 豊永一隆先生(現嶺井第一病院)を交えて魚 釣りを楽しんだ。小松崎先生はキス釣りを得 意とされ、ほぼ全国を廻っており、私も沖縄 のホシギスの投げ釣りを2 回体験させてもら って楽しかった。

最近では講演の度に沖縄の自然(日の出や 夕日それに海など)にひかれて撮影するのを 楽しみにして年に一度は沖縄を含む全国の風 景写真のカレンダーを作っておられる。灯台 下暗しのわれわれに沖縄の自然がいかに破壊 されているか、泡瀬干潟や大浦湾の問題など を考えさせられる。

つづく

(続きは、会報3 月号へ掲載いたします。)