宮城 征四郎
ついに私も6 度目の干支を迎え、日本人口1 億3 千万のなかの22 %を占める65 歳以上の高 齢者の仲間入りを果たす事となった。
おまけに今年は古希を迎える事になる。
そして私にも干支随筆の順番が回って来た。
思えば沖縄県医師会員となった私にとって、 既に42 年の歳月が流れた。
7 度目の干支を迎える会員は今年84 歳とな るわけであるから、さすがに沖縄の医師人口の 中でも、その数は急減するに違いない。
私が書きしたためる沖縄県医師会報での、お そらくこれが最後の干支随筆になるものと思わ れる。
64 歳迄、私は沖縄県の公務員医師として奉 職した。
最初の3 年間は金武保養院と言う結核療養所 で働きはじめ、その後は64 歳になる迄、沖縄 県立中部病院で呼吸器内科医として働かせて頂 いた。
今は多くの私立の病院群からなる群星沖縄研 修センターと言う所で研修事業に携わり、主に 初期研修医相手の勉強仲間として日々を過ごし ている。
しかし私も人並みに年を取って来た。
若い頃、黒々としていた頭の毛は今やまっ白 になり、老眼鏡をかけ、定期検診を受けて生活 習慣病のチェックを毎年受け、歯医者に定期的 に通い、未だ補聴器は必要としないけれども、 いずれはそのお世話になる覚悟をしなければな らない。
3 年前には私自身が小脳出血を患らい、2 ヶ 月間の入院生活と卒中後のリハビりを余儀なく された。
2 年前に最愛の伴侶に先立たれ、兄弟姉妹や 甥、姪などは多数居るものの、子供や孫を持た ない私は突然、家庭的には天涯孤独となり、自 分の人生の大半を伴侶に委ねていた私は呆然自 失して途方に暮れた。
伴侶を失った独居老人の生命予後が非常に劣 悪である事も多くの論文などで読んで承知して いる。
読書の傾向は、これ迄の戦国武将の物語から より宗教的、哲学的となり、はじめて「死」と 向き合う思索や思考が芽生えて来た。
遅すぎると他人は嗤うかもしれない。
しかし、これは厳然たる事実である。
人間は何時までも若くはない。
しかし何処かでは自分だけは「老い」とは無 関係であるかの如く錯覚している。
老いて行く自らを先ず自覚し、自らを叱咤激 励し、何らかの工夫をしつつ人生を全うして行 かねばならない。
私の義父は100 歳の天寿を全うした。その人 生訓に言う。
「生きる、死ぬは運命、健康は努力、食はいのち」と。
女房亡き後の私の日課に毎日1 時間の運動が 加わり、料理学校に入学して自ら料理すること を覚え始めたのは、義父のこの人生訓と必ずし も無縁ではない。
「遂に行く、道とはかねて聞きしかど、昨日、 今日とは思わざりしを」
とは千何百年か前の在原業平の句である。
間もなく私は料理学校の修了式を迎える。
料理学校を卒業したら、次は三味線やエイサ ー、カラオケを習うべく芸能学校へ入学したい と思っている。
老骨に鞭を打ちつつ、何故か私の夢は今日も 絶え間なく広がって行く。