眞喜屋 實佑
農耕に役立てるため天体観測による暦法は古 代メソポタミア、エジプト、インド、中国など 四季の変化の少ない赤道に近い大河のほとりに 栄えた国で発明された。この天文学上の知識が 後の人類の発展に果した役割ははかり知れない ほど大きい。わが国と関係の深い中国では殷の 時代に十干の暦法が使われ王の名前として十干 の名を刻した甲骨が殷墟から発見されている。 つまり農事のための暦がまつりごとや人事にも 用いられるようになったのである。時代が下り国家、社会が複雑になり、さらには戦乱が続く と不安が人に心やすまるものを求めさせるよう になる。そこに宗教や占い、娯楽などが生まれ る素地がある。こうして古代バビロニアに占星 術が生まれ、中国戦国時代には十二支に禽獣が 配され人の運勢や吉凶の占いに利用されるよう になった。中国では戦国時代から漢代にかけて 十干に陰陽五行説が加えられ、日本に伝えられ るとわが国では十二支にまで陰陽五行説が配当 されるようになり、その使用目的や範囲が拡大 され次第に複雑化、迷信化していった。西改に も十二宮(星座)は先に述べたように古くから あったがその星座に人物、動物、器物などの絵 姿が描かれたのはフラムスチートの「天球図 譜」(1729 刊)においである。
1749 年8 月28 日正午にゲーテは生まれた。 「まことに幸運な星のもとに呱々の声をあげた。 太陽は処女宮に立ち、その日の最高点に達し諸 星もそれぞれ太陽をながめ、ただ満月だけが支 配力をふるう惑星時に入ったのでその時刻が過 ぎるまで私は生まれられなかったのである。占 星家たちはこのめでたい星位を大吉とうらなっ てくれたものだが、難産のすえ生命を取りとめ たのもこの瑞相のおかげであったかも知れな い」と彼は「詩と真実」の冒頭で述べている。 ゲーテは星辰の位相で人間の運命が定まると信 じていたのだろうか。その答えは誰にもわかな らい。ファストに見られる彼の神秘主義的思想 を考慮に入れるならば彼の誕生とその時の天球 の動きとは必然という目にみえない糸で結ばれ ていたと考えることも可能であろう。あるいは 難産で生死の境をさまよって九死に一生を得る ことのできた者のみが感じる自然(神)への感 謝と畏敬の念がそういわしめたのかも知れな い。彼は自然児であった。自然を愛し自然との 一体感、共感のうちに生きた。だから星辰も彼 の一部であり、彼も宇宙の一部であった。
西洋の暦は自然の法則で動く星辰の位相に基
づくものでありそれをどう解釈するかはその人
の世界観、人生観による。つまりそれをみる当
人が自らその運勢を決めることになる。一方東
洋の暦法には普遍的自然現象に非科学的、人為
的な要素が付け加えられたためにそこから導か
れる判断も一般性を欠くこととなる。ともあれ
今年はその暦法による