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寅年、年頭(所)感
─ 自分史から

石津宏

琉球大学名誉教授、沖縄心身医学会名誉会長、
前医学部精神衛生学教授 石津 宏

明けましておめでとうございます。

平成22 年(2010)が、良い一年であります ようお祈りいたします。

県医師会から干支(えと)にかかわる新年の 記事を依頼されました。私は、昭和1 3 年 (1938)の寅年生まれの満71 才、足かけ72 年 にわたる歳月を、寅年を指標にしながら、心に 浮かぶままオムニバス風に記します。

生地は旧台湾、台中市で、父は昭和4 年 (1929)総督府立台北医専(旧台北帝大の前 身)を卒業後、産婦人科を開業していました。 まだ戦争前で、当時世の中は希望に満ち溌剌と した雰囲気であったと、国立台湾大学医学院の 教授から後年伺いました。

幼児の私の記憶には、台湾語の「てー、ゆー ちゃこぇ」とのんびりした物売りの声が残って います。「てー」とは杏仁茶、「ゆーちゃこぇ」 とは油で揚げた棒状の軽い食べ物で、ふくよか な香りと味は終生忘れられないものです。戦後 29 年目に台湾へ行き、生家(父の病院はまだ 残っていました)を訪ねた折、多勢の台湾の 方々から「坊やちゃん、おかえりなさい!」 (広島大学医学部講師で・・・・・したが・・・)と大歓迎さ れ、その時にも一番先に「てー」と「ゆーちゃ こぇ」を食べにゆきました。幼児の味覚や嗅覚 のメモリーは脳の神経機構に深くインプットさ れるものです。

次の寅年、昭和25 年(1950)は、敗戦で山 口県に引き揚げ耐乏生活をしていました。冬は ボタン雪が降り、食糧は乏しく小学校の畠で芋 を育て、緑の乏しくなった山には杉の苗を植え ました。焼け野原になり貧しくても、人々は荒 れた山林を開墾し、田んぼを作り稲を植え、み んな力を合わせて必死で働き「国破れて山河あ り!」と額に汗して勤労にいそしんでおりまし た。不景気と失業で無気力化した平成の日本人 に欠けている元気と勇気が、その頃の日本人に はありました。大切なヒントが当時の昭和には あると思います。

次の寅年、昭和37 年(1962)、私は医学部5 年生で東京に住んでいました。母校の日本医科大学は東大に近く、臨床の教授たちは、内科も 外科も産婦人科も精神科もみんな東京大学医学 部出で、おかげで最高の医学教育を受けまし た。当時、東大赤門前の「白十字」という喫茶 店に、東大、日本医大、順天堂大のE S S (English Speaking Society)の仲間が集ま り、3 大学で英語で話す週末を過ごしましたが、 その仲間から私を含む3 名の医学部教授が出ま した。後年、自衛隊那覇病院長として沖縄に赴 任した井出直宏君も1 年後輩の仲間でした。

次の寅年、昭和49 年(1974)には、私は広 島大学大学院を修了後、精神科の講師となり、 新しく日本に導入された「心身医学」「心療内 科」について、臨床各科の若手医師や医学生達 を集めて「広島大学PSM(心身医学)の会」 を作り、勉強会を開いていました。この参加者 の中からも後年、たくさん医学部教授、助教授 が誕生し、その中には広島大学病院長もいま す。・・・・燃えるエネルギーは人を育てるものの ようです。

次の寅年、昭和61 年(1986)には、私は琉 球大学医学部精神衛生学教授として沖縄へ赴任 して4 年目を迎えていました。沖縄心身医学協 会を設立し、これを母体に平成3 年(1991)、 沖縄心身医学会を県医師会医学会の分科会とし て創設しました。・・・・人にはその時々に為(な) すべき「クリティカル・タイミング」というも のが刻まれているのでしょうか。

次の寅年、平成10 年(1998)には、琉球大 学大学院保健学研究科長になり大学の評議員と して管理運営の一翼を担う立場でした。23 年 にわたる教授時代を通して、第44 回日本心身 医学会総会をはじめ、国内学会を11、国際学 会(第11 回アジア心身医学会)1 つを沖縄で 主催し、国立台湾大学医学院との相互訪問学術 交流会をレールに乗せてきましたが、これらに 対する県医師会の先生方からの多大なご支援 に、心から感謝しております。

平成22 年(2010)の寅年は、定年後6 年目 を迎えます。沖縄と実家の山口県での生活が平 穏で実り多いことを願っています。そしてまた 今年も、諸先生、みなさまのご多幸をお祈りす るとともに、よろしくご交誼のほどお願い申し 上げます。〔寅年、元旦〕

附. 白虎もいいが、縦縞の黄色い猛虎が好き な私です。