新垣医院 新垣 善一
“明けまして御目出度うございます”
さて、本年は戦後65 年、安保改定50 年の節 目の年に当たります。
ところで、日米関係は安保体制の枠組みにガ ッチリ組み込まれており、就中、本県は国土の 1 %に満たない県土に全米軍基地の75 %が立 地しており、基本構図は今に至るも変わりあり ません。
しかし、昨年8 月30 日第45 回総選挙におい て自公政権が歴史的大敗北を喫して政権交代が 実現し、国内に漂っていた閉塞感がとれ“明る い未来”が展望できる予感があります。沖縄県 にとっては、基地負担の軽減、地位協定の改定 等基地にまつわる諸課題の解決をする千載一遇 のチャンス到来といえます。この際、目先の利 益に惑わされる事なく、長期的視点に立って県 益を主張することが肝要と思料します。
ところで、我県は、戦後27 年に及ぶ米軍統 治の後、昭和47 年5 月15 日“核抜き、本土 並”のスローガンの下、祖国復帰が実現しまし た。私は同年、日本政府派遣医として帰郷し、 中部病院に奉職しました。当時県内の医療情勢 は現在とは比較にならない程、戦後の影響が色 濃く残っていて、各部門とも未整備の状況であ りました。しかし中部病院は県内のセンター病 院として、米国式研修医制度の下、新垣院長を 先頭に各科各部所が切磋琢磨して、野戦病院な み等と称せられ乍ら日々奮闘していました。ス タッフも皆若く、例えば同期には呼吸器の宮城 先生、整形外科の長嶺先生、泌尿器科の大山先 生、脳外科の嶺井先生、救急外科の真喜屋先 生、また若くして亡くなった内分泌の国吉先生 等、血気盛んな青年医師達がいました。私自身 は呼吸器外科が専門だが、当時県内においては、未開拓の先天性心疾患の外科的治療の推進 に没頭し、人工心肺使用下開心術がルーチンの 業務として定着したのを機に退職し、昭和53 年7 月開業しました。開業して程なく中部地区 医師会の役員となり、当時会員は100 余人で各 市町村より依頼されて学校医、予防接種等の業 務に従事していました。しかし、職能団体とし ては未熟で会員の活動拠点となる会館もなく、 その建設が共通の認識となっておりました。当 時の新里会長は会館用地の取得に熱心で北谷町 宮城の現会館の土地を確保し、その完成に全力 投球していたところ健康を害して一命を落とし てしまいました。そこで執行部としては、急 拠、桑江先生に会長就任を依頼し、前会長の遺 志を引き継ぐことになりました。桑江会長は強 力なリーダーシップを発揮して昭和56 年8 月、 用地取得の承認を得て事業の早期実現に努めま した。
執行部は、昭和58 年1 月設立準備委員会、 同59 年3 月建設委員会を立ち上げ、同61 年6 月第34 回定期総会において会館建設の事業計 画案が承認され同63 年3 月竣工しました。今 振り返ってみますと急がしい中にも、全員が一 致協力して事に当たり、“ヒトの和”チームワ ークの大切さを痛感いたします。
医師会館と健診センターを併設する基本計画 の下、会員からの受託検査、半日人間ドッグ、 住民検診の3 事業体制を誠実に実践したのは建 設担当長田理事、センター運営担当幸地理事で した。その他琉大、中部地区歯科医師会、関係 市町村、特に会員諸先生、職員等の協力を得て 開業後5 年目にして会務は単年度黒字決算をと げ、その後は順調に推移し医師会の諸活動の拠 点、原動力となっています。
私は平成10 年3 月金城会長にバトンを次い で地区役員を退任しました。その後、平成16 年より県医師会の代議員会議長として現在に至 っています。
以上、たまたま私自身の極く限られた経験を もとに復帰時点より今に至る経緯を述べました が、同様のことは県内の各界各層で実行され、 道路、港湾、建築物等社会インフラは見違える 程に再建構築されています。しかし、県内の基 地は占領下、銃剣とブルドーザーの強制接収に より、しかも民有地に建設され、県民としては これ以上の“新基地は御免だ”と云うことが本 音であり“新基地建設反対”を表明する“天の 時”だと思います。
この度、戦後初めて本格的政権交代が実現 し、この機会に国民に基地負担の軽減を強くア ピールすることが必要であり、基地に関わる諸 課題の解決が1 日も早いことを願うものです。
以上