理事 稲田 隆司
乱読傾向があり、あまり座右の書については 考えた事がないが、筆をとってみた。
学生時代、岐阜から、よく大垣発の深夜列車 で東京に行った。白々と夜が明ける頃、東京駅 につき、狛江の南灯寮にもぐりこんだ。ある冬 の寒い日に、湿ったフトンにくるまり壁を見る と、坂口安吾の一文が大書してあった。「桜の 森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりませ ん。あるいは「孤独」というものであったかも しれません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れ る必要がなかったのです。彼自らが孤独自体で ありました。彼は初めて四方を見廻しました。 頭上には花がありました。その下にひっそりと 無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が 降ります。それだけのことです。外には何の秘 密もないのでした。」有名な「桜の森の満開の 下」の一節である。青年期の焦りと高揚で、追 い立てられる様な心境であったが、安吾の大構 えな虚空に吼える文体は静けさも重なり身に沁 みた。岐阜に戻り雨漏りのする下宿の部屋の壁 にその一文を掲げた。その頃、吉本隆明の発行 する「試行」は知的な修練における支えであっ た。二十代の観念の肥大は世界認識への欲望 で、自縄自縛し堂々めぐりであった。吉本の 「心的現象論序説」との出会いは、ものはこの 様に考えるのかと衝撃的であった。ここに原理 があるとむさぼるように読んだ。人の存在の 「原生的疎外」を提起し、そこから精神の諸現 象を根源的に考察していく作業に魅了された。 精神科医となり、現在の精神医学の様々な知見 を得た今も、吉本の問いかけは折にふれ想起さ れる。「まず、生命体(生物)は、それが高等 であれ原生的であれ、ただ生命体であるという 存在自体によって無機的自然に対してひとつの 異和をなしている。この異和を仮に原生的疎外 と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間に いたるまで、ただ生命体であるという理由で、 原生的疎外の領域をもっており、したがってこ の疎外の打ち消しとして存在している。」とこ のような基礎から諸論を展開するが、多くの精 神病理学の論考を超えて今も新たであると私に は感じられる。人が精神を持つ以上、その個性 と世界との関わりにおいて、人は各々にその固 有の重さに耐えることを強いられ、人の精神 が、開かれつつ閉じる、閉じられつつ開くとい う負荷を背負わざるを得ないシステムである限 り、それが時に失調をきたすという事は自明で ある様に思われる。ある精神科医が、人間は覚 醒し生きている事自体が負荷なのだよと酒席で 述べたが、エントロピーの法則に以て、これは 有機体全般にもいえるストレスの様にも思え る。「この原生的疎外はフロイドの概念では生 命衝動(雰囲気も含めた広義の性衝動)であ り、この疎外の打ち消しは無機的自然への復帰 の衝動、いいかえれば死の本能であるとかんが えられている。」
十八史略の冒頭に、竜に立ち向かう英雄が恐 くないのかと問いかける竜に対して、「生奇死 帰」と叫ぶ場面があったが、まさに生は奇なり、 一瞬の現象で、後には死へ帰るのだという表明 は、原生的疎外と通底する。素粒子の展開が有 機物となり生命として現象し、又、宇宙へ帰る というイメージは、いつの頃からか私に生じた。 医療ははかないかもしれない。しかし、それに も関らず、一瞬の各々の貴重な人生に対して、 医療はなにがしかの貢献を為し得る。我々は虚 空に生じた原生的疎外、桜のふぶきかもしれぬ が、それでも美しいのではないだろうか。
安吾の虚空の桜と吉本の原生的疎外はシンク ロしつつ、どうも座右の感覚として一部私の側 に在る様に思われる。
・ちくま日本文学 坂口安吾「桜の森の満開の下」 (筑摩書房)
・吉本隆明「心的現象論序説」(北洋社)