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米国統治下の沖縄における離島からの急患搬送
−雑誌「守礼の光」の記事から−

宮里義久

沖縄県立南部医療センター・こども医療センター
宮里 義久

■はじめに

今年の春、自宅倉庫を片付けていた時のこ と。ほこりまみれの袋の中から、1 冊の雑誌を 見つけた。それは、「守礼の光」1971 年6 月号 だった。当時の琉球列島米国高等弁務官府が発 行している雑誌だ。ページをめくってみると、 「人命救助のため空を飛ぶ男たち」と題する特 集記事が目に留まった(図1)。当時の沖縄に おける、離島からの急患搬送についても取り上 げられていて、興味深かった。今日はその特集 記事から一部を紹介してみたい。なお、文中で 用いる病名、医療機関名については、「守礼の 光」の記事での当時の表記をそのまま用いた。

図1

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■米軍の航空機を使用

当時は米国統治下の沖縄であり、現在のよう な自衛隊の航空機あるいは民間病院の運用する 「ドクター・ヘリ」は、むろん存在しない。記 事には、「琉球政府その他の機関からの要請に こたえて、(米国)陸、海、空軍、海兵隊の飛 行機やヘリコプターによって行われる数多い救 助任務の一例にすぎない」とあるが、そのほと んどが空軍のヘリコプターが使われている。ヘ リコプターを運用する部隊は、「第41 宇宙航空 救助回収大隊第14 分遣隊」(以下、「第14 分遣 隊」と略す)とあり、要請があると部隊がある 嘉手納基地から出動したという。「第14 分遣 隊」は、1970 年には88 回の任務を行い、海難 事故での救援および離島からの急患搬送を含め 60 人の生命を救ったと記事では書いている。 そして、これらの一連の米軍の任務を、「緊急 救助飛行」と呼んでいたようだ。

■急患搬送の際、空中給油も行われた

記事によると、1968 年12 月、沖縄にHH- 3E という大型のヘリコプターが到着し、「第14 分遣隊」に配属されたとある(図2)。この HH-3E ヘリコプターは、なんと空中給油を受 けることができる。記事でも、「急性口こう炎」 にかかった8 歳女児を救うため、「空中給油を しながら(宮古の)水納島へ直行した。ヘリコ プターは宮古病院に直行した後、沖縄に帰還した。」とある(図3)。たしかに、HH-3E ヘリコ プターは、軍医2 名と22 名の遭難者あるいは9 名分の担架を搭載できる救難捜索用の大型のヘ リコプターだが、その航続距離は970km とさ れる。現在わが県で急患搬送に用いられている 陸上自衛隊のヘリコプターUH-60JA やCH- 47JA の航続距離が1,000km 以上を誇るのに比 べれば短い。もっとも、速度、航続距離の上で は、やはり飛行機にはかなわない。そのため か、大東島からの急患搬送などでは、当時から 滑走路のある南大東島には飛行機が、滑走路の ない北大東島にはヘリコプターが用いられてい たようだ(図4)。

図2

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図3

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図4

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■奄美諸島からの急患搬送を受け入れていた

急患搬送の対象は大部分は沖縄の住民だ。他 にも、沖縄近海を航行中の船舶の急病人発生で も急患搬送は行われていた。興味深いのは、地 理的にも沖縄本島に近い沖永良部島や与論島と いった奄美諸島から沖縄本島への急患搬送がす でに行われていたことである。当時は、米国統 治下の沖縄と、日本国の鹿児島県に属する沖永 良部や与論ということで、搬送受け入れとなる と手続き等が煩雑そうだが、やはり人道的な配 慮が優先されたと思われる。

■急患搬送で最も多いのは急性盲腸(虫垂炎)

記事では、離島からの急患搬送の具体例とし て45 件を紹介している。この45 件中、搬送理 由として最も多いのは急性盲腸の13 件で、沖 縄本島内の医療機関へ搬送され、いずれも手術 を行っている。もちろん、転落事故、交通事 故、妊娠に伴う合併症なども搬送対象になって はいるのだが、急性盲腸が多いのは意外であっ た。なぜ急性盲腸が多いのかについて、記事で はその理由には触れていない。おそらくは、(1) 離島では行える臨床検査や画像検査には限りが あったとしても、現病歴や身体所見から急性盲 腸については比較的診断しやすかったのではな いか、(2)そして急性盲腸であれば、急患搬 送、その後の治療(手術)で救命し得るだけの 時間的余裕があったためではないか、などと推 測する次第である。

■開業医も急患搬送を受け入れていた

離島から沖縄本島に急患搬送した後、どの医 療機関で治療したのかについても、記事では触 れており、米陸軍病院、中部病院、那覇病院、 赤十字病院、泉崎病院、大浜病院といった医療 機関の名前が出てくる。そして現在では意外に 思える事であるが、開業医も急患搬送を受け入 れていたようである。記事には、大城病院、新 川病院、知念病院、山城外科、福地病院にそれ ぞれ患者が搬送されたと記されており、そのほ とんどは急性盲腸の患者となっている。なぜ、 開業医のところに、それも急性盲腸の患者が搬 送されているのか、記事では触れていない。当 時の沖縄の医療機関の絶対数が足りなかったた めであろうか。あるいは、医療機関同士で受け 入れ輪番制のような何らかの取り決めのような ものでも存在したためであろうか。

■さいごに

冒頭でも触れたように、雑誌「守礼の光」は、 琉球列島米国高等弁務官府発行のいわゆる宣伝 紙で、その内容は沖縄を統治する側の視点に立 っている点は否めない。ただ、当時の沖縄の 人々が、利用できる手段を最大限に用いて、救 える命を救うべく、離島からの急患搬送に取り 組んでいるその一端を垣間見ることができ、先 人の知恵や努力にあらため感心させられた次第 である。そして、1972 年の沖縄本土復帰に伴 い、陸上自衛隊「第1 混成団」(2010 年3 月に は「第15 旅団」に改編予定)および第11 管区 海上保安本部による急患搬送業務へと引き継が れていくのである。