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雑感 ‘アルジャーノンに花束を’

宮城政剛

新川クリニック 宮城 政剛

人の記憶というのは、はなはだ不明瞭なもの である。この‘アルジャーノンに花束を’とい う本を友人から貰ったのを僕は29 歳の誕生日 と記憶していた。しかし久しぶりに本を手にし てみると、‘チャーリーと同じ年になる政剛、 32 歳の誕生日おめでとう’と書かれていた。高 校以来の付き合いであるその友人は一風変わっ た人で琉球大学を卒業した後、外資系企業に入 社、その後独学でカリフォルニアのバークレー 大学入学、gerontology 専攻、アルツハイマー 病について勉強した経歴を持つ。ちなみに gerontology とは老年学のことだそうだ。この 友人から貰ったこの本のことを折に触れて思い 出す。何故彼がこの本をプレゼントしたのか? 本の感想でも話しながら会いたいと思いながら も何年も経ってしまった。

この本の主人公は、チャーリーという32 歳 で幼児並みの知能しか持たない知的障害者の青 年である。物語はその青年の視点から経過報告 という形で綴られている。今までの生い立ちが そうさせるのか、それが彼の生きるすべである のか、誰にでも親切であろうとする人のいい青 年であった。幼児並みの頭脳しかないチャーリ ーはパン屋で働くものの友達と思っている同僚 からは騙され、馬鹿にされている。しかしその ことが理解できないため周りの人々とはうまく やっていっていた。チャーリーは少しでも頭が よくなりたいという思いから精神遅滞者専門の 学習クラスで勉強を続けていたが、ある時、監 督者の大学教授から開発されたばかりの脳外科 手術を受けるようすすめられ、いくつかの検査 を経て脳外科手術を受けることになる。手術後 知能を回復しチャーリーのIQ は68 から185 に まで上昇し超知能を持つ天才となる。幼児並み の知能しかなかったチャーリーは自分の複雑な 生い立ち、境遇、職場で今までは知らずに過ご していた真実を知るようになる。頭が良くなり すぎたが故に周囲と問題を起こし、これまでに なかった孤独感を感じ始める。その事実に苦し み問題を解決しようとするが、そのことが返っ て周りとの問題を引き起こし、ますます孤立し ていく。そんなある日チャーリーより少し前に 脳外科手術を受け超知能を持ったアルジャーノ ンという名のねずみに変化が起きてきているの に気付く。チャーリーはアルジャーノンの知能 の変化を見ながら自分の変化を予測しつつ物語 は展開する。必死に原因を探るチャーリーだが 退行する知能の中で原因を突き止めることなく 元の幼児並みの知的障害者へ戻ってゆく。

彼は経過報告日誌の最後に、正気を失ったま ま寿命がつきてしまったアルジャーノンの死を 悼み、手術を施行した教授へのメッセージとし て‘アルジャーノンのお墓にお花を上げてくだ さい’と締めくくる。

‘アルジャーノンに花束を’、原題 Flowers for Algernon はアメリカ合衆国の作家ダニエ ル・キイスによるSF 小説で、1959 年に中編 小説として発表し1966 年に長編小説として改 作された作品である。物語の流れ自体も面白け れば、文体が経過報告という主人公の文章とい う形で綴られているため、幼稚な文章から洗練 された文章にすすみ、主人公の苦悩とともに幼 稚な文章へ戻っていく。その文体を読んでも主 人公に起こっているであろう脳内の変化を読み 取ることができ、それがもう一つ物語を面白く させている要因である。この本を読んでいくう ちに気付くことは、チャーリー自身とまわりの チャーリーに対する変化というのは何も本の中 の特別な変化ではないのではないかということ だ。人の一生で起こるさまざまな問題を手術 前、後の変化で濃縮された形で急激に体験した と考えることが出来るのではないか?

身近なところでは琉歌の世界を見てみると、 次のような歌から我々の身近でも起こりえるということが類推することができる。‘ さかうとぅるい や夏とぅ ふゆ 心繰ぐくるくかいがいぬがりしゃ’歌 意:夏と冬が交互に巡って来るように、人の世 の中の栄枯盛衰もまた、その繰り返しから逃げ ることは出来ない。今まで‘いちゃりば 兄弟ちょーでー、 ぬ ひだ てぃぬあいが’が沖縄の人の思いと思って いたが、やはり世の常である、共同体のつなが りが強い沖縄でもある程度周囲の協力が得られ たにせよ人が生きていく上で栄え衰えとはかな らず起こりえることであり当事者本人は辛酸を なめたはずであり、周りの状況はある程度の差 こそあれチャーリーと同じ状況を経験したであ ろうことは想像に難くない。するとこの本に書 かれている内容が人の世において普遍性を持っ た真実として迫ってくる。その思いでもう一度 本を開いてみた。するとプロローグにプラトン の‘国家’の一部が抜粋されて載っているのが 目に入った。以下一部抜粋

常識をもつ人ならだれでも、目の混乱には二 とおりあり、そして二つの原因から生じること を思い出すであろう。すなわち明るいところか ら暗いところへ入ったために生じるか、または 暗いところから明るいところへ入ったために生 じるかである。このことを覚えている人なら ば、洞察力の混乱し弱まっている人を見たとき に、そうむやみに笑えないであろう。

このプラトンの‘国家’を読み終えた時点で 作者の意図する意味がわかるような気がした。 作者は作品を通し、またプラトンの‘国家’を 引用してそのような困惑した人々への対応を考 えることを問いかけているのでないか。そのこ とに気付くと同時に頭の隅にあったもやもや感 は本をくれた友人とこの本のつながりが見えて きたとともにはれてきた。この本が問いかける ものは、多方面からの解釈が可能であろう。し かしプラトンの‘国家’と結びつけるとき社会 的弱者への共感を持つことを訴えていると解釈 できるのではないか?またこの本をプレゼント してくれた友人は医者になったからといってそ の座にあぐらをかかず、常に努力し医師として の本懐をとげ、社会性も持ちながら患者の立場 に立った医療をしてくれというメッセージを、 本を通じて伝えたかったのではないか?‘弱い ものの立場に立ち医療をする、患者さんの立場 に立って医療をする’とは医師になってから何 度となく聴く言葉である。勤務医時代は忙し く、患者に追われている感があった。今は開業 医となり外来により多くの時間を割くことがで き若干、患者を追っている感が無きにしもあら ずではあるが、この本のことを思い出すたび患 者の立場に立ち共感を持つという初心を問われ ている気がする。