沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 11月号

センメルワイスを訪ねて―産褥熱にまつわる失意と栄光―

金城忠雄

沖縄県総合保健協会 金城 忠雄

医学生の頃、産婦人科の講義で、産褥熱の項 目で必ず出てくるのが、ウィーン大学のセンメ ルワイスの手洗いの話である。分娩時の手洗を することにより産褥熱は激減した。しかし、上 司のクライン主任教授の反発にあい、大学を辞 めさせられ失意のうちに故郷のハンガリーに帰 ってしまった。後に、ペスト大学教授となり、 この実施により母体死亡率は激減したが、生前 には医学界では認められることはなかった。後 年、精神を病み、ウィーンの精神病院で帰らぬ 人となった。リスターの消毒法、パスツールや コッホの細菌学の登場する以前の話である。

時がたち、私も看護学校において産婦人科の 講義を受け持つことになった。産褥熱の授業に は、常にセンメルワイスの業績と悲劇を話し講 義してきた。何時の日か、彼の地ハンガリーを 訪ねたいものだと思い描いていた。

とうとう、その時がやってきた。写真はその 時のもの。(写真1)彼が勤務していたという ブタペストSt.Rochus 病院前のセンメルワイス 母子像である。センメルワイスと、彼を見上げ る母と子の非常に印象的な母子像である。

写真1

写真1 ビダペストセンメルワイス母子像

平成20 年10 月、全国公私病院連盟星和夫顧 問−青梅市立総合病院名誉院長−の「栄光のウ ィーン医学」のお誘いに乗った。センメルワイス にとっては、失意と恨みのウィーンと思うが。

ウィーンでは、ヨゼフィーヌム医学史博物館 の皮膚科のヘブラ、病理のロキタンスキー、診 断学のスコダ、外科医ビルロート等の蒼々たる 医学者の足跡に感銘を受け、その後、ハンガリ ーはブダペストへ向かうことになった。

バスでドナウ川沿いの、風力発電プロペラの 乱立する、見渡す限りの平原の中を4 時間か け、ブタペストへの行程である。視界の限りの 平原を見て、ハンガリーが農業国であることを 実感した。車中、星和夫先生の解説とセンメル ワイスについての文献を参考に、彼の業績に対 して、失意と栄光についてのひとこまを追って みることにする。

センメルワイスは、1818 年ハンガリーのブ タペスト生まれ、ペスト大学とウィーン大学で 医学を学び、ウィーン総合病院の産科に勤務、 教育と診療に携わっていた。ウィーン総合病院 の産院は、医師や男子学生の受け持つ第1 病棟 と、助産婦が受け持つ第2 病棟に分かれてい た。センメルワイスは、男子学生の第1 産科病 棟の母体死亡率が高いのに気づいていた。セン メルワイスの集計では、ウィーン総合病院第1 産院の産褥熱による死亡率が11 %を越えてい たのに対して、第2 産院の死亡率は、3 %弱で あることを確認していた。産院病棟の双方の違 うところは、男子学生は解剖実習からそのまま の状態で分娩を扱い、助産学生は解剖は扱って いなかった。

彼は、第1 産科での高い死亡率は、解剖の有 害影響の結果であると確信したが、クライン教 授はその説には同意していなかった。その上、 クライン教授は、解剖教育には非常に熱心であ った。

原因究明の突破口になったのは、親友コレチ カ法医学教授の死であった。解剖の際、腕に傷 をつけ産褥熱と同様な症状で急死してしまっ た。そのこともあり、教授と相談せずに、医学 生には厳重な手洗いを強制した。手洗いをする ようになって、第一産科での母体死亡率が激減 した。

その事実は、皮膚科学のヘブラが、センメル ワイスの発見はジェンナーの種痘法と同様の偉 業であるとウィーンの医学誌に投稿、彼自身が 発表したのではなかった。この事実は、病理解 剖学のロキタンスキー教授や診断学のスコダ教 授も高く評価していた。

一方、上司クライン教授は、このことを快く 思っていなかった。センメルワイスの助手の期 限が切れたのをいいことに、ウィーン大学を辞 めさせ追い出してしまった。彼は、1850 年、 ウィーン大学を失意のうちにハンガリーに帰る ことになった。

ハンガリーでは、St.Rochus 病院の産科医と して職を得た、ウィーンでの同様な診療を継続 して母体死亡率は減少した。1855 年には、請 われてペスト大学に勤務、後に教授に選任され た。教授の肩書きを得たことで、積極的に活動 し1861 年「産褥熱の原因、概念および予防」 を発表、手洗いを徹底させることで、産褥熱に よる母体死亡率を0.85 %にまで激減させた。 外科医にも手洗いや、医療器具の洗浄を熱心に 勧めたらしい。彼への賛同者もかなりいたが、 当時の医学界には受け入れられなかった。特に著 名な病理学者ウィルヒョウなどの頑迷で大物の 賛同が得られないだけでなく、彼の説が否定され てしまった。

彼は孤独になり、とうとう精神に異常をきた したらしい。たまりかねて、彼の妻のマリア は、ウィーン大学の恩師ヘブラ教授へ相談し、 教授のすすめもあり、ウィーンの精神病院に入 院させた。1865 年絶望のうち、享年47 歳で亡 くなってしまった。その生涯は哀れであり同情 を禁じえない。

彼が死亡した年1865 年にリスターの消毒法 発表、細菌学は、彼の死後10 年経って1876 年 以後、やっとパスツール、コッホの時代が到来 したのである。

現在では、オーストリアにおいても、ヨゼフ ィーヌム医学史博物館に、ウィーン医学の巨星 ビルロートのすぐ傍にセンメルワイスの資料が 展示され、十分敬意を払われている。母国ハン ガリーにおいては、旧ペスト大学医学部は、セ ンメルワイス医科大学と改称され、医学博物館 や街路も、彼の名称が送られており、まさに英 雄として称えられている。

センメルワイスの生涯を思うと、人生は、波 長の合う人と仕事をしないと不幸である。上司 がクライン教授のように、意固地で偏屈者であ ると悲劇である。上に立つものには、「そんな 考え方もあるのか」と包容力を持って指導して 欲しいものである。

一方、センメルワイスにも謙虚さ気配りが足 りなかったのではないかとも思う。現況を変え ることは、容易いことではなさそうだ。

現在、生家は、センメルワイス医学博物館と して保存されて世界中から見学者が訪れてい る。博物館の展示の中に「彼の論文」が、厳か に展示されている。医学博物館の裏庭には、セ ンメルワイスの墓標と墓地があり、静かにお墓 参りをした。(写真2)

写真2

写真2 医学歴博物館裏庭の墓標

話題を変えて、当地のワインについて、ガイ ド嬢が「エグリ・ビィカベル」は極上でうまい と。ハンガリーがオスマントルコ軍に攻められ た時、イスラム教は禁酒のはずだが、これは酒 でなく「牡牛の血」だと称してしたたか飲んだ らしい。私も「エグリ・ビィカベル」を、苦難 のハンガリー史を頭で追いつつ、道中このハン ガリーワインを堪能した。

コーディネータ星和夫先生の博覧強記の表現 力には、尊敬と憧れを抱かずにはおれない。産 褥熱対策に情熱を注いだセンメルワイスの苦労 を偲び、若かりし頃の講義時間をも思い起こ し、心も豊かに充実したいい旅であった。