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医療事故と「医療安全調査委員会」
〜医療安全推進週間(11/22 〜 28)に因んで〜

當銘正彦

沖縄県立南部医療センター・こども医療センター
副院長・医療安全担当 當銘 正彦

人は体調の歯車が狂い病気への不安がつのる 時、或いはそれが死の恐怖へと心が揺れる時、 健康への回帰は本人のみならず、それを取り巻 く家族の切なる悲願となる。その様な病める 人々の祈りにも似た思いや期待に応えるべく、 医療は長い歴史を歩んで来た。時に医療が宗教 と背中合わせで語られるのは、むべなるかなで ある。

かけがえのない生命の危機と死に対峙する医 療は、ある時は満天の福音であり、またある時 は悲嘆を分かち合う癒しともなるが、医療と宗 教の決定的な違いは、宗教が心にのみ働きかけ であるのに対し、医療は病める者の身も心をも 総体として受け止め、その対応が求められるこ とである。即ち、医療は患者の心身の何れにも それ相応の影響を及ぼす行為となる。薬物であ れ手術であれ、或いは面談のみの応対であって も、病める者に施される医療行為は、常に両刃 の剣という宿命を持っており、そこには主作用 (利益)と共に大なり小なりの副作用(不利益) が必然的に伴うものである。そして時には、望 まぬ副作用の方が主作用を凌駕するに及び、医 療事故と呼ばれる事態を招くことがある。

ところで医療事故には、一連の医療行為の中 で一定の確率で起こる不可避的な側面を持った 狭義の医療事故と、システム・エラーやヒュー マン・エラーと称される人為的なミスに起因す る医療過誤の2 種類に大別されるが、その境界 は必ずしも明確ではない(図− 1)。

図−1

図− 1 医療事故の概念

我々は医療事故に遭遇した時、それが狭義の 医療事故であるのか、または医療過誤であるの かを分析検討し、その再発予防の対策を考え る。医療過誤であればシステムやマニュアルの 点検と徹底で再発予防に努めるし、一方、狭義 の医療事故であれば、医学や医療技術のレベル 向上を期して、修練と学習の積み重ねで克服を 目指すことになる。

さて、この様な医療事故に対する基本的な認 識はいつ頃から出てきたのだろうか。かつてパ ターナリズムと称され、医師が上から目線で医 療を施していた時代には、医療事故という概念 は極めて乏しかったものである。ところが医療 の近代化と複雑化、そして大衆化に伴う医療現 場の繁忙の中で、陰に陽に医療事故の蔓延が看 過できない程に起こっている現実が、徐々に露 わとなって来た。

象徴的なエポックとして、医療の“安全”が 医療事故との対比で衝撃的に取り上げられたの が、1999 年に米国医学研究機構から出された 報告書「To Err Is Human(人間は誰でも間 違える)」である。米国の有数の病院の綿密な 調査より、米国の医療事故による死亡は年間4 〜 9 万人に上ると推計され、これは交通事故、 乳がん、エイズによる死亡数を上回るものと報 告された。しかもこれらの確認された医療事故 を追跡すると、実際に医療訴訟に至るものはむしろ少数であり、訴訟王国と云われる米国で行 われている医療紛争の多くは、医学的には医療 事故と判断されない事例で争われているとい う、皮肉な実態であることを李啓充氏は報告し ている。

ほぼ時を同じくして、日本では横浜市大の患 者取り違え事件や都立広尾病院の注射誤薬事件 等がマスコミで大々的に取り上げられるように なり、医療事故に対する国民の厳しい視線がい やが上にも拡散し、医事紛争に係る訴訟事件も 急速に増えて来た(図− 2)。

図−2

図− 2 医事関係訴訟事件推移

この様なマスコミや国民の医療事故に対する 厳しい反応に対し、我が国では今、医療現場の みならず厚労省や法曹界までもがアタフタとし ている現況である。その混乱の極みが医師法 21 条への対応であるし、「医療安全調査委員 会」設置法案の流れである。

* 医師法21 条

「医師は、死体又は妊娠4 ヶ月以上の死産児 を検案して異状があると認めたときは、24 時 間以内に所轄警察署に届け出なければならな い」という医師法21 条は、明治7 年(1874) に発布されたものである。当時、警察は内務省 に属し、内務省はその他に衛生、労働、地方自 治、土木など、幅広い分野を所管する内政の中 心であったので、疫病や飢饉、或いは殺人等に よる異常死体を医師が視た場合、警察に届ける ことに特段の矛盾はなかった。

ところが1938 年に内務省から厚生省が独立 し、昭和22 年(1947)にはGHQ の指令によ って内務省は解体される。こうして疫病・飢饉 のような公衆衛生を担う厚生省と、殺人のよう な犯罪の捜査を担う警察が分かれてしまったに も関わらず、医師法21 条は改正されることな く、異状死の届け出先は警察のままとして残っ たのである。

この矛盾に追い打ちを掛けたのが、日本法医 学会が平成6 年(1994)に作成した異状死ガ イドラインである。当時、臓器移植法 案に関連して異状死体からの臓器移植 の可能性が議論される中で、「異状死の 解釈もかなり広義でなければならなく なっている」として、届け出るべき異 状死に「診療行為に関連した予期しな い死亡、およびその疑いがあるもの」 を含めると書かれており、ここにおいて 医師法21 条を拡大解釈して、医療をも 対象とすることが改めて明記されたの である。

それでも、94 年当時は誰もこのガイ ドラインに注目していなかったのである が、平成11 年(1999)、都立広尾病院で起き た誤投薬による死亡事故を警察に届け出なかっ たことについて、医師法21 条に基づいて医師 の届け出義務違反として有罪が確定した。そし て平成18 年(2006)2 月には、福島県立大野 病院の産婦人科医が、業務上過失致死罪及び医 師法21 条違反に問われ、逮捕されたことはま だ記憶に新しい。

この様に本来は医師の診療行為に係わる死亡 とは無縁な法律が、法医学会の勇み足とも言え る誤解を厚労省が追認し、遂には警察・検察が これを盾に実力行使で医療の世界に踏み込んで 来る事態を、ある弁護士は“医師法21 条の不 幸な歴史的転帰”と表現している。

この様な医師法21 条の解釈を巡る医療現場 の混乱と焦燥に、何とか解決の糸口を見つけよ うと案出されたのが「医療安全調査委員会」であるが、これがまた新たな混乱と論議を巻き起 こす大きな問題となっている。

*「医療安全調査委員会」

厚労省から「診療行為に関連した死亡の死因 究明等の在り方に関する試案」を元に第二次試 案が作られ、公表されたのは平成19 年(2007) 10 月である。それからパブリックコメントを集 約した後、平成20 年(2008)4 月に第三次試 案、そして同年6 月には「医療安全調査委員 会」設置法案(仮称)大綱案としてまとめられ た。この「医療安全調査委員会」の設置につい ては第二次試案が公表された時 より数多くの賛否両論が渦巻 き、侃々諤々の議論が沸騰して いる。患者代表や検察・警察側 からは早急な成立を要望する声 が上がる一方、大方の病院や勤 務医からは強い反対の意見が続 出している。ところが医療側の 総本山である日本医師会は、木 下勝之常任理事が代表として厚 労省での審議に加わっている が、一貫して「医療安全調査委 員会」設置への積極的な支持を 表明し、各方面へ賛同を呼びか けている。この様な状況を反映して、権威ある 各種の医学会も賛否二分した状態である。

日医は都道府県医師会に対し第三次試案に 関してのアンケート調査を行い、47 都道府県 医師会中、条件付き賛成も含めて36 医師会が 賛成していると昨年(‘08)5 月に発表し、「厚 生労働省第三次試案に関する日本医師会の見 解」として大綱案の早期成立を訴えたのである が、日医の先走りに不安を感じた長崎県諫早 医師会が全国960 の群市医師会にアンケート 調査を行い、回答があった447 医師会の意見 を集計して、同年9 月に調査結果を発表してい る。それによると、「日本医師会または所属の 都道府県医師会から、厚労省案についての賛 否を質問されたことがある」のは447 医師会の うち僅か48(10.74 %)に止まり、「医師会の 理事会などで厚労省案の賛否を正式に議論し た」医師会も僅か25(5.59 %)に過ぎず、そ の上、「厚労省案におおむね賛成である」とし た医師会は少数派であった、という衝撃的な結 果であった。

昨年7 月にはソネット・エムスリーがインタ ーネットの会員を対象に、厚労省案に対案を出 した民主党案との対比でアンケート調査を行っ ているが、結果は民主党案の支持が41.5 %で、 原案である厚労省案支持の14.3 %を大きく上 回ることが明らかになった(図− 3)。「どちらとも言えない」も44.2 %で、さらなる検討が 必要なことも浮き彫りになったかたちである が、民主党案支持の高い理由として、厚労省案 は、一定の基準に該当した医療事故死の届け出 を義務化し、違反した場合にペナルティーを科 すことが問題とされ、これに対して民主党案 は、当事者間で問題が解決できない場合に“医 療事故調”を利用するとし、紛争解決に主眼を 置いていることが評価されている。

図−3

図− 3 厚労省案と民主党案のどちらに賛成か

次に第三次試案に対するパブリックコメント を見ると、寄せられた意見は団体58 件、個人 404 件であったが、その集計は昨年9 月に公表 されている(図− 4)。これにおいても厚労省案 に賛成しているのは少数であり、圧倒的な多数 が修正ないし反対の意志を表明している。

図−4

図− 4 第3 次案に対するパブリックコメントの集計

この様な世論の大きな抵抗のうねりを受け て、日医では本年(‘09 年)6 月に全国の都道 府県医師会に再度のアンケート調査を行ってい る。それによると賛成が57.4 %、どちらかと いえば賛成が23.4 %で、両者を併せると医師 会の約80 %が大綱案に賛成していると改めて 公表した(図− 5)。この調査に関しては、都道 府県医師会を通して群市医師会(沖縄では地区 医師会)の意見を集約するかたちをとっている筈であるが、長崎県諫早医師会の調査やパブリ ックコメントの集計の結果と余りにも乖離する 結果であり、解釈に苦慮するところである。

図−5

図− 5 全国医師会へのアンケート調査

この様に厚労省が提案する「医療安全調査委 員会」の設置については、極めて深刻な意見の 対立が厳然と見て取れる訳であるが、先ず設置 推進派の論拠をみると、

  • 1)「医療安全調査委員会」が防波堤の役割を 果たす→患者が警察に届けても、「医療安 全調査委員会」の調査結果を待つことにな るから、警察が直接医療現場に土足で踏み 込むことは無くなる
  • 2)「医療安全調査委員会」の設置により、医 師法21 条は有名無実化する
  • 3)医療側が要望する「医療事故に関し刑事罰 を免除」することは、刑法学者や検察、住 民が納得しない

等々を挙げている。

一方、「医療安全調査委員会」に設置反対派 の論拠は、何と言っても医療事故の再発防止を 目的とした「医療安全調査委員会」の検討内容 が、訴訟となった場合はそのまま資料として利 用されることである。医療人であれば誰しも、医療の安全向上のために医療事故のきちんとし た調査分析を望むものであるが、そこでは個人 の責任は追及しない原則が担保されて始めて実 効性が補償されるものであり、それが国際的な 常識でもある。従って、医療事故を調査する機 関と医事紛争を処理する機関は厳密に分離すべ きであり、医事紛争に関しては無過失補償制度 の確立や第三者による紛争処理機関(ADR) の設立を目指すべきとの主張である。

2005 年に出されたWHO の医療事故報告ガ イドラインにおいても、医療事故の調査におけ る秘密の保持性と懲罰・処分への連動を厳しく 戒めている。

また法律の専門家によると、大綱案の技術的 な難点として以下の様な問題を列挙している。

  • 1)医師法21 条の拡大強化→大綱案では、21 条の脅威の除去という当初の目標に逆行す る結果となる
  • 2)医師の黙秘権の剥奪
  • 3)行政処分権限の強化→大臣の届け出命令、 体制整備命令、報告命令、改善命令等
  • 4)現行の業務上過失致死罪の追認→第3 次試 案の「重大な過失」が、大綱案では「標準 的な医療から著しく逸脱」となっている が、これを認めると医療界自身が業務上過 失致死罪という刑法の適応を認めることに なる。医療事故については医療者による自 立的な処罰制度を作るべき
  • 5)医療の行為規範化→過失には予見可能性の 過失と結果回避可能性の過失の二元論があ り、医療事故は後者で取り扱われる可能性 が大きく、委縮医療を招くものである

細かい法律的な解釈は私の理解の及ぶところ ではないが、この厚労省案を元にした大綱案は 多くの、大きな問題を孕んでいることは間違い ない。厚労省の官僚である村重直子氏から、「警 察に通報される確率がゼロの人が、“医療事故 調”案の法案作成を支えていることになります」 という内部告発すらあるのだが、少なくとも 様々なリスクを伴う医療の第一線で現場を支え ている医師にとって、大綱案による「医療安全 調査委員会」の成立は、現場の志気に大きなマ イナス作用になることは避けられないであろう。

事実、日医に設置された「勤務医の健康支援 に関するプロジェクト委員会(2008 年8 月)」 による勤務医1 万人に対するアンケート調査で も、「勤務医の具体的な健康支援のアクション項 目」の中で、89.1%と最も要望の強かったもの が「医療事故に関する訴えがあった際には必ず 組織的に対応し、関係者が参加して医師個人の 責任に固執しない再発防止策を進める」ことと 答えており、これも医療事故を刑事訴訟として 取り扱う我が国の現状に対する憤りと、「医療安 全調査委員会」の成り行きへの強い不安の表現 であると推考できる。

「医療崩壊」現象を真っ先に指弾した小松秀 樹氏に至っては、「もし日本医師会が厚労省案 に賛成するようであれば、全ての勤務医は断じ て医師会を脱会すべし」とまで言い切っている。

医療の安全・安心な遂行は全ての国民の切 なる願いである。このところ政権交代のどさく さで大綱案の法制化の動きは沈静化した感が 無くもないが、本来の医療事故調査機関のあ るべき姿の実現を目指し、厚労省も医師会も 今一度、真剣な仕切り直しが必要ではないかと 考えている。