沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 10月号

コロニア賛歌

吉田朝啓

勝連病院 吉田 朝啓

1962 年4 月、オランダの大型貨客船テゲル ベルグ号は、沖縄の各地から集まったおよそ 300 人のボリビア移民を乗せて那覇港を出発し た。琉球政府派遣医師として私も乗船した。こ れが私の海外渡航歴の始まりである。

船は、台湾海峡、ホンコン、シンガポール、 ペナンを経由して、インド洋上の赤道を越えて 南半球に入り、モーリシャス島、南アフリカの 各都市、喜望峰、大西洋、南米ブラジル・リオ デジャネイロを経て、およそ40 日後にサント スに入港した。かなりの長旅である。移民の健 康管理を担当する琉球政府医官としての待遇 で、私の場合は一等船室での楽な旅ができた が、移民たちにとっては、老人も子供も、若い 夫婦も三等船室の蚕棚同様の窮屈なベッドに押 し込められての過酷な旅であった。年寄りや子 供は、ただぐったりと寝るだけで夜を過ごせる が、新婚ホヤホヤの若夫婦はそういうわけには いかない。蒸し暑くて窮屈な三等船室を健康管 理者として見回っていたある日、ふと思いつい て、一組の若夫婦に声をかけて、自室に呼び入 れた。「これから船長との打ち合わせがあり、 部屋を留守にするが、その間二人で留守番をし てくれ。丁度1 時間後に帰ってくるから、内鍵 をかけて、誰が来てもドアを開けないで、返事 もしないで、二人で休んでいなさい。わかる ね!」と、ウインクしたら、一瞬キョトンとして いたが、ポッと顔を赤らめて、うなずいた。

この愛の留守番担当は若いカップルのグルー プで評判が良く、船旅が終わるまで次々と行わ れた。航海も後半に入り、大西洋を渡る頃にな ると、中年の夫婦まで留守番と部屋の掃除を申 し込む者が出て、結構繁盛した。

1962 年5 月: 40 日の航海の後、サントスに上陸した筆者 (左から3 人目)を迎えた、在伯沖縄県人会の先輩たち。白服 の紳士は通訳、世話人の中国人。

サントスに上陸してからの10 日間の汽車の 旅も難儀だった。豪華客船の一等船室とはガラ リと変わって、私の座るところがなく、客室に 積み上げられた荷物の上にくぼみを作って、寝 起きせざるを得ない。移住者リストにない単身 赴任の私なんか、乗せてもらっただけでも有難 いような、要するに臨時編成のおんぼろ移住列 車旅行であった。

トイレがまた恐ろしくお粗末で、しばしば便 器が詰まって、溢れた屎尿が客室の方へ流れ出 る始末。途中の駅で停車するたびに、総出で清 掃して旅を続けざるを得ない。

その内、風邪も流行り出した。手持ちの薬で 対応するだけで車上のはやり風邪も収まった が、薬よりも効いたと思われたのは、停車する 駅ごとに地元の沖縄出身戦前移民によってどっ さり届けられるパン、バター、ミルク、ハム、 ジュースなど栄養豊富な食料の差し入れであっ た。有難いことに、ブラジル東海岸から西のボ リビア国境に至るおよそ2,000 キロの鉄道沿線 には、戦前の沖縄県人移民が定住していて、戦 後の移民が汽車で目の前を通過するたびに、食 料品などを持ち寄って激励することが通例とな っていた。先輩移民にとっては、このボランテ ィア活動が、自ら数十年前に体験した移住の苦 しみを思い出させ、新移民がさらに大陸の奥地 に行こうとするのを無視・看過してはおれない 心地にしたのではないだろうか。

ウチナーンチュ(沖縄県人)の温かいチムグ クル(肝心・心根)を旅の途中でたっぷり注ぎ 込まれた新移民たちは、感謝と同胞愛に胸と腹 を膨らませながら一路西へと旅を続けた。ボリ ビアのサンタクルス駅に着いたときも、多くの 先輩移民のみなさんに歓迎され、みな武者震い をするほど勇気が湧いた様子であった。

ジープに揺られてたどり着いた第二コロニア (移住地)は、アマゾン上流地帯ジャングルの 中にあった。樹高30 メートル余の巨木が、緑 の壁をなしてコロニアのセンターを取り囲んで いる。赴任先の診療所には、医療器具はなにも なく、私が持参した聴診器と顕微鏡(医学部時 代に級友と共同購入し、卒業時私が買い取った 記念の品)だけである。心細いやら情けないや ら。お蔭で半年から1 年の間は、最小限の器具 と薬などの整備に費やされた。経験不足の若い 医者に加えて、全く貧弱な設備での不安は尽き ない。こういう場合、病気が発生したら、コロ ニア現地でできるものと、手におえないものの 仕分けをまずしなければならない。沖縄を発つ 前に、先輩医師にいわれた心構えを思い出す。

医療の世界で、「手遅れ」には二通りある。 病人およびその家族の側の遅れ(patients delay)で重大化するものと、医者の能力を超 えるものをモタモタして引っ張ってしまい、手 遅れにしてしまうケース(doctors ・delay)で ある。これは、僻地にいる新米医者の心得てお くべきポイントである。

そんなことは、重々弁えているつもりでも、 お産のときは、微妙である。そもそもお産とい うものは、動物全般に共通していて、病的現象 でもなんでもなく、医者や助産婦なしでもさら りとすませるものだが、人類は万が一に備えて まず助産婦を用意し、医者を侍らせた。コロニ アでは、まずお抱えの助産婦さんが往診をする が、ちょっとでも自信がない場合、ドクターが 呼ばれる。だが、ドクターは若くて産婦人科の 専門ではないときている。研修医時代、一応お 産の介助くらいは手ほどきを受けるし、沖縄出 発前に産婦人科で短期間の特訓を受けるのだ が、助産婦が危ぶむものを引き取って、ジャン グルの真っ只中でお産を完遂させる絶対の自信 はない。そこで、陣痛促進剤などでいろいろ試 みるが、妊婦の夫や家族が疑わしい目で凝視し ている時、つい、100 キロ離れたサンタクルス 市の大病院のことが頭にちらつき、ジープによ る搬送を指示せざるを得なくなるのである。え てしてこういう場合、搬送途中で妊婦が揺られ て、陣痛が促進され、お産が始まることが少な くない。そういえば、かつて、移住地から少し 離れたフィンカという牧場近くで陣痛が始ま り、産湯なしで生まれた子がいた。後でミス・ フィンカと名づけたが、いま、数えて40 歳、 元気だろうか。

ところで、診療所に満足な器具は揃っていな いし、門前市をなすほどの患者が来るわけでも ない。一日中診療所の中で病人を待っているわ けには行かない。

森に入った移住者は、沖縄から様々な病気 を身につけてそのまま働いている人も少なくな いだろう。当時の沖縄は、回虫、十二指腸虫、 ぎょう虫、糞線虫などの腹の虫やフィラリアと いう住血糸状虫が蔓延していて、それをそのま ま腹に抱いて南米に来た者も多いはずである。 これらの寄生虫は、人の命を奪うほどの病害性 はないが、貧血をもたらす十二指腸虫、胆道に 迷入して激痛を起こす回虫、肺結核に紛らわ しく、時に喀血や猛烈な下痢を起こす糞線虫、 そして乳房や睾丸が腫れたり、足が象のように 大きくなったりするフィラリアなどのように、 労働力を甚だしく消耗させてしまう。特に、フ ィラリアは放っておくと年々後遺症がひどくな り、やがて不可逆的な障害をもたらす。幸い、 自分の研究のためもあって、顕微鏡1 台は持参 してあるので、これを活用して、第一、第二、 第三コロニアの全員を対象に先任のT 医師 (第一コロニア診療所)と共同で、フィラリア とすべての腸内寄生虫の一斉検査をやることに した。

フィラリア仔虫は、不思議なことに夜間だけ 血の中に現れる。だから、真夜中に検査道具を 引っさげてジャングルの中に分散する移民小屋 を一軒一軒回るのは大変だ。でも、「これをやら なければ、移住事業は難渋する。ここでは、難 しい高度な医療はできない。まずは、2 年間の 滞在期間中に、あらゆる寄生虫を一掃すること に専念しよう」と、必死の戦いが続けられた。

ある日、馬を駆って緊急往診を依頼して来た 青年がいた。「父親が物凄い下痢で、今にも死 にそうだ」という。ジープを駆って往診する。 なるほど憔悴しきった中年男性が、ボロ切れの ようにゴザの上に横たわっている。目も頬も落 ち窪み、いわゆるコレラ様顔貌である。コレラ だったら一大事。組合事務所とサンタクルス市 の当局に通報し、組織的に手を打たなければな らない。でも、恐る恐る採便して持ち帰り、顕 微鏡で見た視野の中に、コレラ菌とは似ても似 つかない糞線虫で、大蛇のようにくねる無数の 幼虫を発見したときは、正直いってバンザイを 叫びたくなるほど嬉しく、安堵したものであ る。はるばる顕微鏡を運んできていてよかった! 糞線虫なら、家族への感染を防ぐだけで、防疫 は簡単である。

森の中の診療活動にも慣れてきた。

第二コロニア本部広場には、製材所、精米所、 教会、学校、組合事務所などがセンターに集合 していて、そこには多くの若者たちが本部職員 として働いていた。夕方になると、製材所の職 員は鋸くずだらけ、精米所は糠だらけのまんま、 診療所のドアの前に集まって、事務職や学校の 若い教員が引き上げてくるのを待っていた。

これから、合唱の練習が始まるのである。 その頃、コロニアの小学校には、隣国ペルーか らボランティアでやってきた日本語のできる沖 縄二世が4 名もいて、正規の課程が進められて いたが、4 名とも日本の小学校唱歌は教えられ ない。そこで、診療の傍ら、私が引っ張り出さ れて、「ふるさと(うさぎおいし)」「夏は来ぬ」 「われは海の子」など、目ぼしい歌を私が担当 して子供たちに教えることになる。だが、これ は鬱屈していた私の魂の癒しにもなった。

南米大陸の、海岸線を持たない内陸国のボリ ビアで、子供たちと「われは海の子」を合唱す るのも妙なものだが、海洋国日本の、島嶼県沖 縄をふるさとに持つ移民の子達に、あえて海洋 民族の気概を吹き込んでおくのも悪くないと考 えた。

一方、青年たちの場合は、国を出てから小学 校の歌なんか口にしたことがなく、朝から晩ま で真っ黒になって働くばかりである。ジャング ルの中で、ただ働くだけではいくら若くても精 神衛生上よろしくない。コロニアの将来を担う 青年たちが明るくたくましく毎日を過ごすには どうしたらいいか。声を揃えて歌う方が手っ取 り早い。そこで、一計を案じて、本部で働く青 年たちを集めて、夕方1 時間だけのコロニア合 唱団を立ち上げ、練習するようになったのであ る。まず、小学校と同じ唱歌を一通り習って 後、替え歌「コロニア賛歌(雪山賛歌改変)」 を歌うことになった。

「モンテよパンパよ われらが宿り
俺達や サンタクルスにゃ 住めないからに。
モータクーの小屋でも月見はできる
雨が降ったら漏れればいいさ。荒れて狂うは
あのリオグランデ 俺達やそんなもの
恐れはせぬぞ。ふるさとさよならご機嫌よろしゅう
また会うときにも笑っておくれ。」

けだし、沖縄の高校を出た青年でも、当時の 青年歌集に載っていた「雪山賛歌」を知ってい る者はなく、ましてやその替え歌などメロディ ーも歌詞も知っている者もいない。しかし、モ ンテ(森)もパンパ(草原)もモータクー(椰 子)もみな目の前にある自然物なので、青年た ちはすんなり受け入れて歌ってくれた。替え歌 なんて気づくこともなく、セルベーサ(ビー ル)を飲み飲み、蛮声を張り上げて歌う青年た ちは、とても明るく純粋で頼もしかった。変ホ調コロニア風合唱団のメロディーは滅茶苦茶だ が、メンバーの中には、豪華客船の一等船室で 私の代わりに留守番をしてくれた者も数名い て、みんな気心の知れた仲間だった。

にわか作りのコロニア合唱団が帰って後は、 診療所のある本部周辺はひっそりとしてジャン グルの静寂に戻る。得体の知れない動物の鳴き 声や虫の声が聞こえて不気味である。しかし、 満月の夜は別である。組合食堂で軽く夕食を済 ませた青年たちが、三々五々広場に集まって、 にぎやかに沖縄相撲をやる。診療を済ませた私 にも呼び出しがかかった。青年たちの肩越しに 見物していたら、いきなりG 君が私を引っ張り 出して、荒縄を私の腰に巻いた。気がついた ら、目の前にゴリラのようにでかい青年U 君が 突っ立っている。おもむろに腰に手を回したと 思う間もなく、「ハイサイ、ドクトル!」と叫ん で、私を180 度回転させて、砂の上に叩きつけ てくれた。その後、横綱クラスの青年たちが 次々と私を手玉にとって転がすのだった。こん な屈辱は医者になって初めてである。その時、 G 君が「ヨーバーグヮー(弱虫)ドクトル!」 と、笑いながら突っかかってきた。どう見ても 私よりは軟弱でモヤシのようにただ伸びただけ の体格をしている。私の中に、なにか爆発する ものを感じながら、思い切りこの無礼者を受け 止めて叩き伏せた。学生時代、柔道をたしなん だせいもあって、こんなヘナ猪口を転がすくら いは朝飯前である。性懲りもなく何回も飛び掛 つてくるG 君を、最後には払い腰で南十字星の 方角に投げ飛ばして、「参ったか」と、溜飲を 下げた頃には、満月もようやくジャングルの土 に皓々と照り輝くほどになっていた。

ジャングル生活もいよいよ終わりに近づいた 頃。ある日、そのG 君がやってきて、「ドクト ル、狩にいかんか」という。「狩? なにをやる の?」「アンタよ。アンタ!」。「この野郎、またお れをコケにしやがって! 今度はあばら骨をへし 折ってやろうか!」とどやしてやると、なんと、 アンタとは南米原産の野獣“バク”のことだと いう。夢を食うといわれている獏。それがコロ ニアのあちこちに出没することはきいていた。 G 君の森(未開のジャングル)にポーソー(池) があって、そこにいるという。後学のため行く ことにした。日が暮れる頃、ハンモック、懐中 電灯、五連発銃を持って、森に行く。がっしり した2 本の木にハンモックを張って登り、二人 で見張っていると、いろいろな動物の足音が聞 えてくる。まず、鼠や兎などの小動物がカサコ ソ。パチパチ、ガサゴソと鹿や猪。蚊が身体中 を刺すが、叩いて音を立ててはいけない。1 時 間ほどすると、ミシミシと重量級の動物の気 配。狙うアンタである。予め打ち合わせたとお り、まず銃身に装着してある磁石つきの懐中電 灯のスイッチを「一、二、の三」とお互いに肘 で合図して一斉に入れる。アンタは突然の光芒 に目がくらんで、一瞬棒立ちになる。一人は頭 を、一人は胸を狙ってダダーンと撃って、終わ り。そのまま、蚊取り線香をつけて、寝る。翌 朝、ゆっくり降りて、血痕を辿っていけば、や がて森の中に横たわるアンタを発見することに なる。マジックで胴体に月日とハンターの名前 を書いて放置したまま帰り、モーソ(使用人) に指示すると担いできてくれる。先に少量の肉 をもらって、残り全部をモーソに与えると大喜 びして持ち帰っていく。

しかし、こんな後味の悪いスポーツは二度と やりたくない。命を奪うという行為に嫌悪感を 覚える。G 君の誘いにはもう乗らないことにし た。第一、アンタの肉を食わんでも、コロニア にはもう十分な食料はある。人類共通の天然資 源であるボリビアの原生林を剥奪して、農地に しておきながら、なお、遊び心で天然の動物資 源を無駄に撃ち殺すなんて、もうできない。

いよいよコロニア生活の終わりが目の前に近 づいた頃、ある日、横綱のA 君がのっそり入っ て来た。

「ドクトル、魚獲りに行こう]と言う。

「どこに?」

「リオグランデ。ドクトルの送別会を兼ねてだ」。

否応なしの決定事項らしい。

総勢20 名の青年たちと2 台のカミオン(ト ラック)に分乗して乾季のリオグランデ河畔に 着く。リオグランデとはスペイン語で『大河』 という意味だが、名前の通り川幅が1 キロメー トル以上もあって大きい。乾季でも水面が100 メートルはあるが、それでも大アマゾンの一つ の支流に過ぎない。1 メートル近い魚が川下の アマゾンからたくさん遡上してくる。糸満出身 のT 君が編んだ地引網を川岸の砂浜からループ 状に張る。先ず、横綱クラスの青年たちが網の 先頭を持って川上の方へ斜めに入って行く。 「ドクトルは、真ん中あたりの網にぶら下がっ て、魚を逃がさんようにして!」と、G 君に言わ れて、慌てて2 メー卜ル幅の網にしがみつく。 先頭の横綱たちが下流に向かって網を曲げてい くと、せき止められた魚たちが袋の中の鼠同 様、浜の近くに群がる。

こちらの腹に激突する魚。ジャンプして網を 飛び越える魚。青年たちの叫び。灼熱の太陽。

狭い日本や川もない沖縄では味わえない大陸 ならではの豪快なレクリエーションである。捕 れた魚と裸の青年たちを積み込んで、カミオン はジャングルの中の暗い道をコロニアに帰って 行く。

「荒れて狂うは、あのリオグランデ 俺達や そんなもの 恐れはせぬぞ」

ちょうど40 年前の経験だが、若者たちと過 ごした2 年半のコロニア生活は、今でも鮮やか に記憶にあり、私の脳の中でときどき珠玉のよ うに光って、私を若返らせてくれる。

大河リオグランデは淡水魚の宝庫(1963 年)向って右から三人目が筆者