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上海紀行―「第8回SLE国際会議」に参加して―

大浦孝

医療法人十全会おおうらクリニック
(リウマチ科) 大浦 孝

芥川龍之介は「上海游記」で次のように述べ ている。『上海は支那第一の「悪の都会」だと か云う事です。何しろ各国の人間が、寄り集ま っている所ですから、自然そうもなり易いので しょう。私が見聞しただけでも、風儀は確に悪 いようです。たとえば支那の人力車夫が、追剥 ぎに早変りをする事なぞは、始終新聞に載って います。又人の話によれば、人力車を走らせて いる間に、後から帽子を盗まれる事も、此処で は家常茶飯事だそうです。』

ところで今回、私共も三泊四日、中国・上海 へ出掛けた。当会議は三年に一度、世界各地で 開催される全身性エリテマトーデスの病因・病 態・治療に的を絞った国際会議である。第一回 は、カナダのカルガリーでスタートした。第二 回(1989 年)のシンガポールでは「沖縄県に おけるSLE の臨床的解析」を発表した。第三 回(1992 年)のロンドンでは「沖縄県におけ るSLE の十年間の追跡調査」を発表した。今 回は近隣の上海でもあり、最近の仕事をまとめ て「急性ループスネフローゼ症候群の治療」と してポスタープレゼンテーションを企画した。 金沢大学医学部附属病院リウマチ・膠原病内科 長、川野充弘先生の御指導、御指示により英 語に堪能な藤井博君が発表者となった。ネフ ローゼ症候群(Class W)に対して、薬物療 法、血漿交換療法(二重濾過法)、及び血液透 析療法(限外濾過法: ECUM)を同時に併用 して、急性期を凌ぎ、更には腎機能の回復を目 論む新しい治療法として紹介した。

会場は上海国際会議中心(コンベンションセ ンター)である。会場ではさまざまな衣装や容 姿、格好が驚きで、T シャツにジーンズやリュ ックにサンダルで家族旅行も兼ねて参加してい るという御方も見受けられた。かのSLE の大 家、ドクター、ヒューズはユニオンジャックの 下、英国スーツを着こなすジェントルマンであ った。当日の発表に関しては、 喧噪けんそう の中で特段 の関心や注目度が低かったのは残念であった。 国際学会の中でポスタープレゼンテーションの 形式にも問題があるかもしれない。

中国最大の都市上海は黄河の支流、黄浦江に また がって発展している。両岸に旧都市と新都市 が広がり、2010 年の万博に向けて建設ラッシ ュである。超高層ビルが林立し、地震がないの で百階建てのビルも建設中であった。ニューヨ ークの摩天楼、マンハッタン島の規模を平面的 にも立体的にも 凌駕りょうが するのではなかろうか。そ の中心部に威容を誇るランドマークが東方明珠 電視タワー(テレビ塔)である。このテレビ塔 は高さ468 メートルで東洋一、世界でも三位を 誇り、上球、中球、下球部分に展望台が設置さ れており、遠くから外観を眺めても、芸術的な 建造物としてユニークでおもしろい。上球の展 望台から見下ろす上海の夜景は、ネオンきらめ く広大な平野で、その真下には一条の川が流 れ、黄浦江リバークルーズの小船がネオンで照 り輝いて巡航していた。

タワーの前にある複合ビルにはレストランや ショッピングセンターもあり、高級腕時計、有 名服飾メーカーが多数入っていたし、日本製衣 料店や玩具店、回転寿司もあり、コンビニも日 本と変わらないぐらい多かった。そこのレスト ランで昼食、夕食とも中華料理を食べ、上海料 理、北京料理、四川料理などさまざまな種類の 中華料理を堪能することができた。料理は豪華 であったが驚くほど安かった。

帰路、超高層建築物の街頭、自転車の荷台 で、畑より搬入した 西瓜スイカ の輪切りの薄片を串刺 しにして、手ぬぐいで汗を き拭き、通行人に 立ち売りする一人の農夫在り、現在の上海を象 徴する風景と思った。

ところで会場に入る前から、近くの大きなビ ルの屋上の上海海洋水族館の看板に注目し、徒歩で5 分程の距離と見込みを立てていた。幸い にも時間はすぐ工面できた。学会でも、理解困 難で、興味が持てないプログラムを割愛し、水 族館での「魚類の生態観察」へと振り替える自 主プログラムを作成したのである。時間は優に 2 〜 3 時間はあった。学会のシンポジウム以上 に興味をそそられることとなった。

大都会の中心部で、超高層ビルが何と水族館 なのである。アジア最大級の規模を誇りアマゾ ンやアフリカからも魚類を取り寄せているとい う。階上より地階へ各階に川辺の生き物、海辺 の生き物、さんご礁の生き物、深海の生き物と 立体的に配置されていた。ただちに、エスカレ ーターで川から海へ下ることにした。

最初の出迎えは 鰐公ワニ であった。川辺にたたず む揚子江鰐は一見生き生きとしていたが実は 剥製はくせい であった。というのは2 〜 3 分、上下左右 から観察していたのだが、その間微動だにしな かったのである。

次の間の大部屋の中で、悠々と回遊する一群 の紅色斑点帯模様黄金淡水魚類(アロアナの一 種)の乱舞は息を むほどの圧巻であった。

次の階では、ガラス越しに水中の石庭を観賞 していた。数点の岩石を配置し、その昔、拝観 した京都の龍安寺を連想させる箱庭と思った。 突然、大きくて、太い、黒い、長径1 メートル ほどの丸太棒の様な岩石がゆらりと動いた。そ の岩石がこの岩陰からあの岩陰へぬるりと いずり抜けた。再び静止し、そこの岩石のごとく となった。ほんの三秒ほどの出来事であった。 もしこの三秒を見逃せば、今も前も何の変哲も ない箱庭である。動く岩石は大山椒魚(オオサ ンショウウオ)であった。深山の山間の谷川で 静かに健やかに成育したのが捕獲されて、ヒト の観賞用に飼育されているのであろう。見事な 擬態で太古の昔から今日まで生き延びた生命に 敬意を表した。同時に、今、彼はここで何を考 えているのだろうかという妙な妄想に取りつか れたものである。お隣の水槽では、カブトガニ がひっくり返って、もがきながらお なか を見せて 笑っているように見えた。また、身動きもせず そのまま死んでいるものもあった。

長さ155 メートルの水中トンネルをくぐり抜 け、最下層の地階へ下りて、さんご礁の生き物 を見ていると、沖縄に帰ったかのごとく安心し た。深海の生き物は沖縄の深海魚と同様、暗 く、無気味な沈黙の中にあった。その沈黙の中 で、先ほどの妄想を打ち消すほどの重圧を感じ た。エレベーターで急上昇し元へ戻り街へ出る と、喧噪の中に現実があった。大都市の群集の 中で、けし粒ほどの自分を自覚した。徒歩で学 会会場に帰り、既に録画されているシンポジウ ムのDVD を購入予約した。

芥川龍之介は「支那游記」の自序で次のよう に述べている。「支那游記」一巻は畢竟ひっきょう 天の僕 に恵んだ(或は僕に災いした)Journalist 的才 能の産物である。僕は大阪毎日新聞社の命を受 け、大正10 年3 月下旬から同年7 月上旬に至 る120 余日の間に上海、南京、九江、漢口、長 沙、洛陽、北京、大同、天津などを遍歴した。 それから日本へ帰った後、「上海游記」や「江 南游記」を一日に一回ずつ執筆した。

文豪に倣って本紀行文をつづ ってみた。国際会 議も上海も想像を絶するほどの企画、規模でそ の全貌を掌握し描写することは困難で、到底筆 の及ぶところではない。いわば群盲象を評する の類であろう。