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めでたき節目に・・。

祝嶺千明

しゅくみね内科 祝嶺 千明

新年明けましておめでとうございます。

毎年、干支を気にするのは年賀状を書く時く らいのもので、正月気分がなくなるころには “はて今年の干支は何だっけ”と思うものです が、自分の生まれ年の干支となると特別で、し かも4 回目(!)ともなると複雑な心境です。

これを書いているのは10 月ですが、このと ころ告別式の新聞広告に目を通すのが日課にな ってしまった。‘なってしまった’と書いたの は変な話、この記事に関心があるのは年寄りの 証拠(!?)と、誰が言ったわけでもないが自分 の中で決め付けており、それを見ることに抗っ ていた自分がいたからです。一方、同い年の家 内は以前からこまめにその記事に目を通してお り、家族親族の欄まで把握していて「誰それの 家族が亡くなっているさ。」と教えられること もしばしば。自分は内心“まあよくそこまで。 暇だなあ。”と思っていたが、正直なところ、 そのおかげで失礼にならず助けられたことが何 度かあった。今では“彼女が知らない自分の知 人だと困るし、立場があるから見ておかないと な。”と自分を正当化しつつ毎朝記事に目を通 している。

ところで、この死亡広告欄があるのは、日本 でもここ沖縄の新聞だけらしいですね。地縁親 戚関係を大事にする沖縄ならではということ でしょうが、もしかして、あまり聞きたくない 訃報を知らせるあの区内放送も沖縄だけ?

死亡広告の話なんて正月らしくない随想、大 丈夫かな・・と思いつつ、さらに‘らしくな い’話を。

これは死亡広告欄に目を通すようになった原 因の一つ。

南大東診療所勤務時代の友人が亡くなった。台風13 号が近づく転勤先の離島で。クモ膜下 出血であったよう。知ったのは件の家内情報で なく、共通の友人からの電話で。転勤族同士、 毎日というほどテニスをしたり、同じ釜の飯を 食べたりの日々を送った仲間で、2 ヵ年の単身 赴任の間の恩義は深く、お互いに本島に出てき てからは会うことはなかったが、突然のその訃 報には大ショック。

当時、友情を育んだ共通の友人夫婦と自分の 3 人で中部にある自宅を弔問。法要でない日で あったので弔問客は自分達だけ。奥さんが出迎 えてくれたが、16 年ぶりに再会した彼は、遺影 の中で微笑んでこちらをじっと見ているだけ。 祭壇の横には亡くなる寸前まで使っていたとい うテニスラケットが置かれている。祭壇の前の テーブルを囲んで4 人座る。

久しぶりに再会するお互いの老けた姿を観賞 し、言いにくい感想を述べつつ、16 年間の空 白を埋めるべくひとしきり話した後、一緒に来 た友人が自分は脳腫瘍で闘病中・・と話し出し た。手術をしたが再発。新薬という化学療法も 使ったが効果がなく、夫婦で相談をした結果、 それ以上の治療は断念したとのこと。医者であ る自分は、重々しい目の前の現実にただ「ああ そう、そうか・・。」というくらいで“専門外 だから何かアドバイスを求められても困るな ー。”と内心思っていたが、彼らの「もう何も しないという選択肢を選んだら楽になったさ ー。」という自己完結した言葉に救われたよう な気がした。

いとまを告げて帰りの車中、友人たちの死や 老い、病に様々な思いが去来し少々感傷的に。 寄る年波のせいか。生死に関わるイベントは、 ひしひしと身にしみる。

最近は誕生日にドックを受けるとか、結婚記 念日に死について夫婦で語り合うとか、記念と すべき節目に自身の体や生き方を考察する向き が増えているようです。

さわやかな朝、例の広告欄に目を通すことが 1 日のスタートになった今日この頃、12 年に1 回しか廻ってこない年男であるから、今年はこ れからの年の取り方をちょっと真剣に考えてみ ようかなと思っています。

正月らしくない随想、最後にせめて新年ら しく。

皆様にとって本年が素晴らしき1 年となりま すように!