豊見城中央病院整形外科
古堅 隆司
会員のみなさまあけましておめでとうござい ます。
ついに原稿締め切り日を...大夫過ぎてしま いました。
この原稿依頼ではじめて、「今年は年男であ ることに気づかされた」というのが正直なとこ ろです。さて、何を書こうか? 干支の抱 負??? とりあえず過去問(過去掲載文)の チェックをしてみました。
37 才は原稿なし。49 歳まだまだ現役バリバ リ?で仕事の話や近況報告。61 才(還暦)引 退後のことがちらほら、夫婦で旅行など...、 73 歳(古希)悠々自適?。85 才(?)人生を 振り返って...など
49 才の今年より、この次(12 年後)の丑年 (還暦)のことが、気になります。ちょうどそ の頃末娘が二十歳です(一つの役目から解放さ れます)。「♂カマキリは、♀カマキリに食べら れておしまい???」で、力尽きてしまうので は...、趣味のない人間にとって仕事がなくな ってしまったら、ぬけがらのようになってしま うのでは...とこれからの12 年、どうなるか、 考えてしまいます。とりあえず、趣味をもたね ば!と思っております。家内と娘がテニスで仲 良くやってますので、仲間はずれにならないよ うに遅まきながらテニスでもはじめてみようか と、思いはあるのですが...追々考えることに します。
自分自身病気せずに長持ちし、家族が健康で あれば...と願っております。これまで(過 去)の自分の生まれ年(丑年)について振り返 ってみますと、最初の丑年は、「13 祝い」をし たような気がします。25 歳は大学3 年生... 37 歳は細切れのような大学医局ローテーション(中徳、南徳、中徳、那覇市立、県立八重 山、メディカル病院、豊見城、沖縄整肢療護 園)から大学に戻り、股関節と小児整形を専門 とし、リハビリテーション部と兼務していまし た。その後は、沖縄整肢療護園、そして現在の 豊見城中央病院と勤務しております。6 年間の 肢体不自由児施設勤務は、世間とは違う、ゆっ くりとした時間の流れのなかで、子供たちと合 宿生活を過ごす舎監のようで、診療もゆったり と行えました。会員のみなさまから多くの患者 さんを紹介していただきました。しかし、自立 支援法の施行により肢体不自由児施設における 整形外科医の役割って何だろう?自分にできる こと、自分のやりたいことは?自分のすべきこ とってなんだろう?と、自問自答する日々が続 き、3 年前に職場をかわることにしました。
毎日があわただしく、目の前の仕事を何とか することでいっぱいいっぱいですが、日々の整 形外科臨床について、ディスカッション(相 談)できる仲間がいることで精神的に追い込ま れることなく、診療にあたることができている ような気がしています。「ぬるま湯」から「熱 湯」、「ジョギング」から「全力疾走」ぐらいの 環境の変化のなかで、日々医局までの階段を昇 り健康に注意しながら、自分と家族を守り、常 に前を向いていきたいと思っています。
最近、学会などに参加しますと「伝統」「継 承」「若手医師へ語り継ぐ・・・」などのタイ トルで、シンポジウムが設けられているのを目 にします。いかにして次の世代へ引き継いでい くか。医師として、次の世代になにをなすべき か?何ができるか?を考えつつ、自分自身引き 出しを多くできれば、また、引き出しの中身を 充実していければと考えております。
年明け早々駄文に最後まで目を通していただ きありがとうございます。