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丑年に因んでー還暦と医師会活動

當銘正彦

沖縄県立南部医療センター・こども医療センター
副院長 當銘 正彦

今年、遂に60 才台の老年境へと突入である。 男性の平均寿命が約80 年だから、人生の3/4 が既に経過したことになる。第3 コーナーを回 って最後の直線に入ったわけだが、当の本人に 余りその自覚はない。ともあれ、赤いチャンチ ャンコを羽織って祝う「還暦」の意味がよく分 からないので、この際と思い調べてみた。そし て、俗に言う「干支」とは、十干(甲・乙・ 丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支 (子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・ 戌・亥)を組み合わせたものであることを始め て知った。十二支は余りにも有名だが、十干と いうのはこれまで全く知らなかったのである。 「10 と12 の最小公倍数は60 なので、干支は60 期で一周することになる(Wikipedia より)」 ということで、60 才を還暦と呼ぶ理屈である。「60 年の歳月を掛けて生まれ年(赤ちゃん)に 戻る」との意より、赤いチャンチャンコを羽織 って目出度し、目出度しである。

年令に因んでもう一席。時代劇で「人間五十 年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くな り。一度生を享け滅せぬもののあるべきか」と、 苦境に臨む織田信長が、扇子を翳して豪放に吟 ずる場面をよく目にするが、てっきり信長の作 だとばかり思っていた。これも念のために Wikipedia で調べたら、平家物語を能の原型と いわれる幸若舞で演出された「敦盛」の一節で あることを知った。信長は「敦盛」の大ファン であったとのことである。インターネットは本 当に有り難いもので、なかでもWikipedia は重 宝している。

さてインターネットに感謝しつつ、我々が日 常的に使う言葉や知識が、いかに適当で生半可 な理解の元に使役されているかの反省もしきり であるが、還暦を迎えるこの年令になって私が 一番に驚いているのは、自らの「医師会」への 大きな認識不足であった。即ち沖縄県医師会、 日本医師会に対する誤認である。

私は以前(’04 〜 05 年)、沖縄県公務員医師 会の会長を務めた経験がある。公立久米島病院 への転勤のため就任僅か2 年でご赦免となった が、これまで県立病院が山と抱える課題には少 なからず関心を持ち、その解決への努力を仲間 と共に苦労してきたつもりである。ところが、 こと県医師会や日医の活動については、殆ど無 関心であった。その理由はといえば色々だが、 結論的に言えば「医師会」は開業医の利益集団 であり、我々勤務医、とりわけ公務員医師との 利害は必ずしも一致しないという認識である。 ところが、私が3 年間の久米島赴任から南部医 療センターへの転勤に伴い、私の後任で入れ替 わりに久米島へ赴任する村田謙二先生が、偶々 県医師会の理事を務められており、昨年の4 月 からはお互いの役回りをトレードするかたち で、私の「医師会」への関与が始まった。

県医師会の理事を引き受けるに当たり、その 繁忙さについてはある程度、村田先生から訓告 を受けて覚悟はしていたのだが、実際に活動を 開始してみると大変なものである。理事会の中 で、成り立てである私の仕事の分量は当然に少 ない方であるが、それでも毎週(火)1 回の理 事会に加え、私の担当である医師会報広報委員 会、医事紛争処理委員会、医師会誌編纂事業等 の定例的な会合に加え、地区医師会長会議、代 議員会、マスコミ記者との懇談会、その他諸々 の講演会や勉強会等々、医師会関連の予定が無 い週は見当たらないほどに盛り沢山の活動が連 綿と続く。新参の私ですら「忙しない」という 実感を拭えない県医師会活動であるが、会長、 副会長、および常任理事の3 役の方々の仕事量 は半端でない。取りわけ会長については専従職 に近いものでしょう。月々の医師会報に「会務 のうごき」で会長、副会長の公的なスケジュー ルを見ることが出来るが、これらも実際の役務 のホンの一端でしかないことを銘記すべきであ る。地区医師会−県医師会−九州医師会連合− 日医と各段階に応じた医師会の取り組みがあ り、その取り纏めは大変な作業である。確か に、医師会の活動には当然ながら利益集団とし ての側面も多々あるが、37 にも上る委員会活 動を俯瞰すると、その中には学校保健、産業 医、県民健康講座、高齢者対策、マスコミ記者 との勉強会、新聞投稿コーナーの確保、県医学 会活動等々、極めて公共性の高い活動が多いこ とに感心する。約2,300 人を組織する県医師会 の決算書を見ると、年間1 億円余の事業費を駆 使する膨大な活動であるが、私が一番に驚いて いるのは、3 役をはじめ、理事や各種委員会の 皆さんの献身的な活動への姿勢である。自分の 診療活動の傍ら、医師としての社会的な責務を 果たすべく医師会活動に参画している姿は、心 から頭の下がる思いである。

ただ医師会の不幸は、かつて日医の「天皇」 として君臨した武見太郎氏の権謀術数が、極度 な利益集団としての社会的な評価を定着させ、 未だにそれを払拭できない様相である。そして 我々勤務医にとっての大きな不満は、中央社会 保険医療協議会における日医の振る舞いが、これまで一貫して開業医優先の保険診療体系に執 着し、病院医療の進歩に見合う制度の構築には 殆ど無関心であったことである。

ところが近年、深刻な「医療崩壊」がマスコ ミでも喧しく取り上げられるようになり、「医 療崩壊」の実態が「病院医療の崩壊」である認 識が広く定着するに至り、日医の基本的な姿勢 が大きく変化して、病院医療= 勤務医の問題へ 向けられるようになって来た。即ち日本の「医 療崩壊」を食い止めるには、勤務医の過酷な労 働環境の改善無しには不可能であることに、日 医・執行部も明確な理解を示すようになって来 ている。

私は昨年7 月より日医の勤務委員会(15 人 の委員で構成)に参加しているが、2 年間の任 期における唐澤人会長から与えられたメイン テーマは、「医師の不足、偏在の是正を図るた めの方策−勤務医の労働環境(過重労働)を改 善するために−」である。政府の一貫した低医 療費政策の中で、開業医と勤務医でパイを奪い 合うような分断策に弄されていては、危機に瀕 する我が国の「医療崩壊」を食い止めることは できない。その様な認識を日医のトップから示 されていることを、勤務医会の論議を通して強 く感じている。

この国の医療を誰が守るのか。そしてどの様 な医療を国民に提供することができるのかとい う大きな試練の岐路に、今我々は立たされてい る。開業医も勤務医も、医師会の元に力を結集 して立ち向かう以外に術は無い。私も及ばずな がら還暦にして、医師会活動の重要性を噛みし めているところである。