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古希雑感――丑年に因んで

知念正雄

知念小児科医院 知念 正雄

2009 年は丑年になり、昭和12 年生まれは古 希になるという。これまで生き延びてこれたの は希なことであり、これからの人生は余分な年 齢を重ねることであるから感謝して生きなさい という意味なのかと勝手に解釈した。これまで 牛歩で歩んできた人生だから今更焦ることはな い。これからも小児科医という自分本来の仕事 を誠実に実践していく以外にはない。

1)第60 回保健文化賞受賞のこと

さて昨年は図らずも第60 回の保健文化賞を 受賞し、多くの同僚や先輩の祝福と激励を頂戴 した。心から皆様に感謝している。多くの仲間 と一緒になって活動したことに対する評価であ り、私一人で成し得たことではない。これまで を振り返ってみても、なんと多くの人々に教わ り、助けてもらったことであろう。

私は昭和45 年から52 年まで県立中部病院に 勤務して後に開業した。当時の小児医療では、 肺炎や膿胸、髄膜炎など細菌感染症が多く、急 性腎炎、小児リュウマチ熱、先天性心疾患な ど、本土では既に治療体系が確立した疾患が多 数存在し、少ない小児科医は多忙を極めた。目 の前の仕事をこなしながら、重篤な疾病に苦し む子ども達を見るにつけ、必然的に小児保健的 活動の重要性を意識するようになってきた。県 立中部病院ではハワイ大学からの指導医や、厚 生省からの派遣による多数の偉大な先生がたの 薫陶を受ける機会に恵まれた。特に徐世模教 授、国立岡山病院の故山内逸郎先生、国立小児 病院の故永沼万寿喜先生など忘れられない方々 である。さらに小児保健の実践的活動では、東 大母子保健学教室の平山宗宏先生を中心とする 乳幼児健診班と共に離島健診に参加したこと が、小児保健活動の一端を身をもって体験し、 私のその後の仕事の基礎を培ってくれたものと 思っている。このように多くの同僚や仲間は友 人であると同時に私の師であり、先生方のご指 導があってこそ現在の私が在り、それが今回の 保健文化賞につながったものだと思って、感謝 の気持ちを忘れずにこれからも自分にできるこ とを一つ一つやっていきたい。

2)開業小児科医として思うこと

開業して32 年が経過した。全国的に出生率 が低下し、沖縄でも子どもの数が減少の一途を たどりつつあるのが現状である。診療所で見る 子ども達の疾病の内容や重症度にも大きな変化 があり、又子どもたち本人や、一緒についてく る保護者(母親、父親、祖父母?)の様相にも 変化が見られている。診療所では以前に見られ たような重症な細菌性疾患は殆ど見られず、大 部分がウイルス性感染症であり、風邪症状とい われる程度の状態で連れてこられるようにな り、小児科医にとっても、又子ども本人にも良 いことではあるが、その後のケアーや予後のこ とを十分説明しなければならないのが日常診療 の怖さであり、手の抜けない毎日である。専業 主婦(父、母)が少なくなり、子どものことよりも保護者の都合が優先されてしまい、小児科 医にみてもらったから後は他人まかせにしてし まう事が日常茶飯事になってきた。少ない子ど もが大事に育てられているのかどうか疑問に思 うことが多い。最近の子ども達が少年期や青年 期に達した時期になって、自分の存在意義の大 切さに気づいていないと思われる事例に時々遭 遇するのは、とても残念なことである。「誰も 自分を見てくれない、自分の気持ちを理解して くれるひとがいない…」など本気にそう思って いる子どもがいることの重大さを認識すべきで あろう。そこに親子関係のずれがある様に思わ れるし、小児科医が日常診療の中でその仲介的 役割を果たすべき時代ではないだろうか。しか も乳幼児期に積極的に介入(支援)するのが、 長期的展望からして効果的であろうかと思われ る。小児科医が子どもの疾病のみに関わる時代 は過ぎ去り、子どものあらゆる状態に関心をも ち、その対応に心すべき時代になっていると感 ずるのである。医療、保健、福祉、教育、環境 など小児科医が関わっていかなければならない 領域が広がりつつある。「明日の時代を見据え た小児科医の役割は何であろうか?」と自問自 答しながらの毎日である。

今までの診療の中で子ども達に私自身が育て られてきたので、これからは子ども達に感謝し ながら子ども達のために何ができるかを考えな がら、迷いながら(stray sheep)良い仕事が できるようにしたいものである。