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古稀を迎えて

町田宗孝

まちだ小児科 町田 宗孝

小児科医と産科医の不足で小児医療と産科医 療の崩壊が大きな社会問題となっている。

昭和41 年、私が小児科診療所を開設した当 時は、県内の小児科医会会員は20 名程であっ たように記憶している。当時県立中部病院でも 小児科医が空席で、内科医が小児医療を担当す る時期があった。小児科医に限らず医師不足 で、中部地区(浦添市、西原町から読谷村、石 川市まで)の医師会会員は70 余名であり、県 立中部病院の医師を含めても100 名程度で、何 れの診療科の医師も多忙を極めていた。そのよ うな状況の下で数少ない小児科医の諸先輩の頑 張りと、内科医や他科の医師によって小児医療 が支えられていた。

28 歳の若さで小児科診療所を開設したので 臨床経験が浅く未熟ではあったが、若い体力と 気力と情熱は充実していた。繁忙期になると連 日250 人以上の患者さんで文字通り待合室から 溢れ出て門前市をなす診療の傍ら、校医、保育 園嘱託医、市町村乳幼児健診、予防接種等、小 児科医として当然の任務と心得て進んで引き受 けた。多忙な30 代40 代には、いわゆる3 分間 診療を余儀なくされ、短時間で診断に必要な情 報を得るのに全神経を集中し、所見の見落しに 特に注意、問診は勿論のこと、視診(視覚)、 聴診(聴覚)、触診(触覚)、臭いを嗅ぐ(嗅 覚)時には舌(味覚)の五感を総動員し、更に 第六感まで働かせて迅速で的確な診療を求める ため緊張の連続であった。

連日の激務に耐える体力と体調の保持、精神 の安定がなければ良い診療はおぼつかない。中 学、高校時代の友人達や地域、PTA のスポー ツ行事に進んで参加し、体力の増進とストレス を解消し、心身のリフレッシュに努めた。小 学、中学、高校と学校代表として陸上競技他に 出場、高校陸上競技県大会砲丸投げ2 位、 800m リレー3 位、沖縄市陸上競技30 代砲丸投 げ1 位、走り高跳1 位、走り幅跳1 位、40 代 100m1 位(12 秒0)等の成績を残す事が出来 た。医師としての存在の他に、スポーツを通し ても多くの方々と親しく交わりを持つ事が出来 た事を誇りに思っている。

40 代まで心身ともに20 代と遜色無い機能を 保って診療に励み、スポーツを楽しんで来た が、40 代後半から肉体の老化の兆として、過 激な運動で怪我(脊椎分離症、下肢の筋膜断 裂、肩関節腱断裂)を体験するようになり、老 眼の進行で老いの始まりを認識する。50 代で は老眼鏡の度数が増え、60 代に入ると疲労回 復の遅れや聴力の低下、記憶力が衰えた。人の 名前や薬品名、草花の名前が思い出せないなど で、夫婦の日常会話で「えーっと、あれよ、あ れ、えー、何て言ったっけ、あれ」と云う事が しばしば。ゴルフでも300 ヤード飛んでいたド ライバーショットが240 ヤードに落ちるなど身 体の諸機能の衰えが顕著になった。

医療に携わる医師は永年の経験と研鑽を積み 重ねていても、体力、五感、第六感、記憶力、気力の衰えの為に、診療に関して重大な誤りを 犯す事が有ってはならない。医師免許は終身免 許であっても、命を預かる医療行為は的確な診 療がおぼつかないと感じられた時(自覚的、他 覚的)に終わりにするべきであると思う。小児 科医不足と言われるが県内の小児科医会会員は 40 年前の20 名から160 余名に増え、多くの新 進気鋭の小児科医が頑張っているので、古稀を 迎えてそろそろ幕引きの時期を模索したい。