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沖縄---名も知らぬ 遠き島より

須信行

琉球大学医学部第二内科教授
須 信行

「名も知らぬ 遠き島より
 流れ寄る 椰子の実一つ

故郷(ふるさと)の岸を 離れて
 汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)」  島崎藤村 「椰子の実」

私は沖縄の人間ではない。では「なぜ沖縄に いるのか?」。「たまたま沖縄に漂着した」と答 える。たまたま沖縄に流れ着いた。「椰子の実」 とは逆に黒潮をさかのぼ って沖縄にきた。遠い先祖が 丸木舟で黒潮に乗って伊良湖岬いらごみさき に流れついた。 私は時空を超え、沖縄に漂着した。沖縄に漂着 した経緯をお話する。

伊良湖岬の近くで生まれ育った。子供のころ、 流れに身を任せ、海に浮かんでいるのがすきだ った。海に浮かんでぼんやりしているといつの 間にか海岸が、陸が視野から消える。地球が きゅう であることを実感する一瞬だ。しかし、突然、 不安になる。岸に向かって夢中で泳ぎ始める。

流れに身を任せていた。1992 年(平成4 年) 初夏、すべてが視野から消えた。不安になる。 夢中で泳ぎ始める。国立大学内科教授は全国 区。北は旭川、南は琉球。どこであろうと構わ ない。琉球大学が内科の教授を募集していた。 どこの医学部であろうと行こうと決めていた。 琉球大学も一つの選択。受験生の気持ちが分か る。沖縄は知らなかった。琉球の地を踏んだこ とはなかった。書類を提出した。

1993 年(平成5 年)2 月22 日月曜日にはじ めて沖縄の地を踏んだ。活気にみちた那覇空 港、そして椰子の並木道が私を迎えた。夜は 「パナリ」で石垣牛を食べた。中部病院の安次 嶺馨先生にご馳走になった。寒かった。ステー キを楽しんだあと、バーに行った。英語しか話 せない米人女性がいた。米軍軍人夫人であると いう。1972 年(昭和47 年)5 月沖縄は日本に 返還された。そして、1973 年2 月に固定相場 制から変動相場制に移行した。固定相場制では 1 ドル360 円だった。変動相場制に移行した結 果、1973 年には1 ドル260 円に高騰。1993 年 (平成5 年)には1 ドル110 円、1994 年には 1 ドル90 円。年俸1 万5 千ドル貰っていた米軍 人は、1972 年には年540 万円貰っていたのが、 1993 年には年150 万円ということになる。月 給10 万円では物価の高い日本ではとてもやっ ていけない。割りのよい主婦のアルバイトだ。 沖縄には米軍基地があるということを知った。 翌23 日火曜日面接。5 月16 日採用ということ になった。5 月16 日は日曜日だった。5 月17 日月曜日が勤務初日。5 月の連休中に 梅雨つゆ は終わっていた。夏だ。太陽は鋭く皮膚を突き刺し た。太陽が痛かった。

知らなかった。「1944 年(昭和19 年)3 月に 沖縄守備軍・第32 軍が創設されるまで、沖縄 には軍事基地はなかった」ことを今まで知らな かった。沖縄は植民地台湾への途中の島々にす ぎなかった。戦略上重要ではなかった。太平洋 戦争末期にフィリピンやマリアナ諸島で日本軍 が敗北していく過程で沖縄の軍事基地建設が始 まった。1945 年(昭和20 年)3 月、米軍は艦 船1500 隻と54 万人の軍隊で人口45 万人の沖 縄を包囲した。攻撃を開始した。90 日あまりの 激戦で沖縄を陥落し、占領した。国内でただ一 つ地上戦の行われた沖縄戦は、6 月23 日に終わ った。20 万人の死者をだした。米軍の戦没者も 1 万2000 を超えた。米軍にとっても残酷な戦 闘だった。それ以来、米軍は沖縄を占領した。 1972 年沖縄を日本に返還した。しかし、米軍は広大な軍事基地を手放そうとはしない。利用 している。日本復帰後、日本の米軍基地の 75 %が沖縄にある。沖縄県全体の面積の11 %、 沖縄本島の20 %が米軍によって占有されてい る。沖縄を車で走るとどこに行っても基地。ご みごみした沖縄の街が突然消える。広々とした みどりの野原そしてきれいな建物が現れる。そ こは米軍基地だ。これらの基地は「銃剣とブル ドーザー」で建設された。

1945 年(昭和20 年)終戦時には沖縄の医師 は10 人だったという。1945 年の人口およそ40 万人。1972 年(昭和47 年)の人口は100 万 人。復帰のときの初代沖縄県知事屋良 朝苗ちょうびょう の声「沖縄県民100 万人を代表し---」を覚えて いる。現在の人口137 万人。2004 年12 月の医 者数2784 人、人口10 万人当たり205 人の医師 がいる。医者の数は他県に比べて少なくはな い。戦後の沖縄医師の極端な不足を補うため、 1953 年(昭和28 年)から1986 年(昭和61 年)まで実施された国費留学生による医師の増 加。そして1987 年からは琉球大学医学部は第 一期生を世に出している。沖縄県の医者の数が 他県に比べて少ないわけではない。沖縄県は毎 年160 人の研修医を受け入れている。少なくは ない。那覇近辺は医師過剰地域である。しか し、離島には医者がいない。北部 山原やんばる には医者がいない。

1992 年(平成4 年)首里城が再建された。 1993 年(平成5 年)5 月に沖縄に漂着した。 15 年間医者つくり、医学教育に関与してきた。 しかし、沖縄の医者不足は続いている。沖縄の 基地はそのまま存続している。

名も知らぬ 遠き島より
 流れ寄る 椰子の実一つ

故郷(ふるさと)の岸を 離れて
 汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
 枝はなお 影をやなせる

思いやる八重(やえ)の汐々(しおじお)
 いずれの日にか 国に帰らん     島崎藤村「椰子の実」

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Fax 098-895-1415