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5年前のアフガニスタンを想い、5年後の自分を想う。

佐久間淳

那覇市立病院 佐久間 淳

初めまして。僕は那覇市立病院初期研修医の 佐久間淳というものです。今回縁あってこう して「県医師会報」に文章を寄稿する機会をい ただきました。僕が5 年前の2003 年にアフガ ニスタンを訪れた際に書いた文章を載せようと 思います。アフガニスタンで医療支援活動を行 う医師や看護師たちとともに、医学生だった僕 はアフガニスタンのカンダハルという街を訪れ ました。

  • −カンダハル大学の医学生に「私達を救って ほしい」と言われた。
  • あなたは誰かに「救ってほしい」と頼まれ たことがあるだろうか。
  • 「救ってほしい」と頼んだことがあるだろ うか。−

パキスタン南部の町クエッタからアフガニス タン、カンダハルまで陸路8 時間、うち国境越 えに2 時間。峠を一つ越えるが、それ以外は砂 漠の荒野が延々と拡がる不毛の大地。国境を越 えてから所々戦車の残骸や爆破された橋がある ものの、比較的穏やかな感じ。でもカンダハル が近づくにつれて様子が変わってきた。検問の 数が増える。

その検問でニヤニヤと言うかトロンとした目 付きの兵隊が、機関銃片手に「何しに来た?」 という様なことを運転手に言っている。「こい つこの眼で簡単に人を殺すんだろうなぁ。今ま でに何人殺したことがあるんだろう」などと思 ったら、恐くなってしまった。日本ではもちろ ん、海外を旅する中でも嗅ぐことはなかった戦 争の匂い。目の前の戦闘の恐怖。僕たちが国境 でチャーターした車はブレーキを踏むと『小さ な世界』が車内に流れるように改造されたお間 抜けワンボックス。こんな時に限って車内には 「せかいぢゆう、だれだあってえ〜」のメロデ ィーが空しく流れる。「僕は一体ここに何をし に来たんだろう?」多分周りの参加者たちも同 様に緊張を覚えたはず。「戦争の恐怖を知らな い僕たちがノコノコとここで何をするつもりな んだろう」戦場で働きたい、なんてバカなんじ ゃないの?本当に不幸な人たちのいる場所に は、僕は立ち入ることでさえこんなにビビッて しまう。

そしてカンダハル。アフガニスタン南部の中 心都市で、タリバンの本拠地があったことから 日本でも度々耳にすることがあった名前。ソ連 侵攻から内戦を経てアメリカ空爆まで、23 年 間戦争が続いただけあって、破壊された建物や 廃墟が目立つ。それって日本でもニュースでよ く見た光景。でも実際は、予想していた以上に 人々は地に足つけて生きているように感じた。 たくましく生きている、という感じ。僕たちは カンダハル滞在中、午前中は2 カ所の難民キャ ンプと市内にある診療所、そして郊外の村で診 療を行って、午後は、大学や中学校、小学校、 市民病院に行って日本から持ってきた医療品や 顕微鏡などの贈呈式、兼視察を行なった。決し てキツいスケジュールではないにも関わらず、 日々の疲れは相当なものだった。実際に滞在期 間中一日は、滝のような下痢が止まらずダウン してしまった。

ここから先、文章をどのように進めていけば いいか、悩んでしまう。

「難民キャンプではこんなことして、診療所 ではこうで、こう感じてだからこう考えまし た」というのが筋だと思う。確かに一緒に行っ た日本人医師、現地のアフガン人医師に付いて 医療活動はしたけど、色んなことを感じたけ ど、考える、ということが難しい。僕の中で考 えが進まない。例えば、プロジェクトの一つと して、日本の小学生と絵を交換するために、カ ンダハルの小学生に絵を描いてもらったときの 話。草や花、家の絵を描く子たちの中に、戦車を描いている子がいた。「格好いいから(戦車 を描いたの)?」と聞くと「うん、これに乗っ てアメリカ人と戦うんだ」って。どう考えれば いいんだろう。「よし、この子たちに必要なの は教育だ!」と言うかもしれない。そこで考え てしまう。教育って何だろう?何を教えるんだ ろう?「アメリカは悪くないよ」ということだ ろうか。

アフガニスタンではタリバンの残党の存在も あるが、部族間の争いが今も続いている。カル ザイ大統領の影響力は首都カブールからアフガ ニスタン全域に及ぶものではもはやなく、地方 では今も戦闘があるらしい。いつ家族が殺され るとも分からない人たちに向かって「争いはや めろ!争いは争いを生むだけだ!」というのは あまりに説得力がない。僕たちはここの人たち 以上の何を知っているのだろう?アメリカの汚 さだろうか?「ブッシュが悪い」「小泉が悪い」 とTV のスクリーンに向かって罵り、憤るだけ の、何も動こうとはしない醜い日本人の顔だろ うか?彼らに教えることのできる何を、僕たち は持っているんだろう?彼らは僕たちよりも知 っている。戦争の恐怖を。平和の難しさを。

難民キャンプの話も一つ。テントを一つ借り て、その中で診察を行う。乾燥しきっているせ いか匂いはあまり気にならないものの、それは それはひどい環境だ。井戸の水位の上がり下が りに一喜一憂して、夏は酷暑、冬は極寒の砂漠 の国、アフガニスタン。しかも生まれた土地か ら遠く離れたこの地でテント生活。笑えない。

でも何を隠そう、当の本人たちは笑ってい る。よく笑う、というほどではないが、たくま しい。僕は元気をもらってしまう。少しでも元 気になれるように、笑ってもらえるように、そ のために来ているのに、なんなんだろう?何を しに来たんだろう? 10 年後、彼らを元気にで きるだけの医療知識と技術を引っさげてここに 戻ってきたとしよう。そして彼らを僕の望みど おり元気にして「ありがとう、ドクター」って 泣きながら握手を求められて「やっぱこれだ ね」って思ったとしよう。それってただの僕の 自己満足じゃないだろうか?僕がこの地を去っ た後、「佐久間がいた時だったら助かっただろ うに」って人がいっぱいいたのでは意味がな い。むしろ、僕がきた時に束の間の幸せを見た 分、かえって不幸になっていやしないだろう か?僕がその地で医療活動をすることにどれだ けの意味があるんだろう?彼らにとって本当の 幸せは難民キャンプから故郷に帰ることだと思 う。そのために僕は何ができるんだろう?自己 満足ではない慈善活動、国際協力の形とはどん なものなのだろう?果たしてそんなもの存在す るんだろうか?

それでも23 歳の僕はまだ自分の進んできた 道を、進もうとしている道をあきらめようとは 思わない。そりゃあそうだ。まだ何もしていな い、誰も救っていない。

アフガニスタンに行って分かったこと。何十 年も大国のパワーゲームに翻弄され続け、世界 に落胆しているものの、それでもまだ人々はあ きらめていないということ、生きようとしてい るということ、そして救いを求めているという こと。それはたった今も。

アフガニスタンを訪れてから5 年が経ち、僕 は23 歳の僕が思っているような28 歳の臨床家 になれているんでしょうか?一つだけ確信を持 って言えることは、自己満足ではない慈善活 動、国際協力を求める想いはより一層強くなっ ていると言うことです。あの頃よりも僕の中で 守らなければいけないものは増えてきています が、歩みはゆっくりになっているかもしれませ んが、まだまだ進み続けていきます。