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“波の上”我がふるさと

下地武義

沖縄県立南部医療センター・こども医療センター
下地 武義

先日、NHK で奥武島の海人の紹介をする番 組で冒頭にお兄ちゃんの証明として橋より海に 飛び込むシーンが紹介されていた。集落のお兄 ちゃん達が次々と飛び込んでいく、中学生にな りたてくらいの子が足より飛び降り自慢そうな 顔を見せる。これと全く同様のシーンが、かつ て我が波の上にもあった。昭和20 年代から30 年代初頭に話は飛ぶ。セメント船が波の上神社 の崖下から50m くらいの沖合に沈没したまま で、マストが海に突き出た状態であった。当時 の海はとてもきれいで澄んでおり、小魚もそこ ら中で泳ぎ回っていた。3 月になるともう海の シーズンである。4 月の新学期が始まる頃は、 日焼けで一皮剥ける状態であった。父親に泳げ なくては男でないとよく言われ、泳ぎの練習を 首里のプールにまで遠征して練習するのだがな かなか上達しない。波の上のプールによく投げ 込まれたものだ。小学校卒業までも50m が泳げ ない、友達は皆あの沈没船まで泳いで行き、お 兄ちゃん達が架けてくれるロープでターザンの 如く、格好良く海に飛び込んでいくのである。 早くあそこまで泳いで行きたいと羨望は増すば かりである。息継ぎを教わって、特訓して何と か50m を泳ぐことが出来るようになったある 日、勇気を出して沈没船を目指した、途中で海 の色が濃いブルーに変わる、足が震えだし戻っ てしまう。悔しい。何度か繰り返した後、何と か沈没船に辿り着けた。これからが大変であっ た、縄梯子を上らないといけないのである。足 をかけると梯子が90 度に曲がって、全体重を 手足で支えないと背中から海へドボンである。 必死になって上りきった。船上で寝転がって、 やったと一人悦にいったものである。一息つい た後、いよいよターザンになるのだ。ロープに つかまり何度か往復して揺れて海に飛び込んだ のだ。勿論足から、海中に深く入って、今度は そこから這い上がらねばならない。息が切れそ うだ。一生懸命に両手でかいでかいで水面に腰 まで飛び出したときは、何とも言えない安心感 と満足感を味わったものだ。もうお兄ちゃんで あると満足そうな顔であったことであろう。当 時、波の上は大勢の中学生、高校生が泳いでい た。海で色々な遊びを教えてくれた。どうして も出来なかったことがある。ある高校生が、 30cm くらいの棒切れでアバサーをつつくので ある。アバサーはたまらずに膨れ上がってしま う。これを何匹も何十匹も集めてくるのであ る。この遊びだけは高校を出た後も、現在も出 来ないままである。時代は変わって、平成の初 期、神社のちょっと沖合の大橋から息子らが飛 び降りて遊んでいた。そのことが原因で、父兄 から文句が出たようで、学校から呼び出しをく らった。飛び込みを止めさせなさいとのことで あった。彼らもおそらく飛び込むことが、お兄 ちゃんの証明のつもりであっただろう。そんな 息子を自慢に思ったものである。その頃から、 波の上は、人工ビーチ以外は遊泳禁止(市議会 で決まったとか)となっている。空港からのト ンネル工事の影響であろう、海も濁っている。 遊んでいる人も減った。堤防の外にはテトラポ ットが積まれ、泳ぎにくくなっている。この工 事の始まる前は、数メートルの深さに、ほんと にきれいなサンゴが繁殖していた。30cm ほど の魚も遊泳していた。今は、こんな光景は見ら れない、残念である。人工ビーチの網内にアバ サーだけはたくさん泳いでいて、私の泳ぎの下 手さ加減をあざ笑っているようである。

自然をいじくり過ぎて、少年の冒険心を試す 場所を大人は奪っているのではないだろうか。 貧しい時期の最高の遊び場所であった波の上 は、はるかかなたの海を眺めながら、夢を思う 場所でもあったし、落ち込んだとき慰めてくれ た場所でもあった。偉大な自然の回復力で、い つの日か往時の美しい波の上に戻ってくれるこ とを願って止まない初老の思い出でした。