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私の中国語

源河茂

源河医院院長 源河 茂

コザの一番街から路地に入ったところに台湾 料理店「凱莎琳(キャサリン)」がある。毎月 20 日になると、この店で私は中国語を話すメ ンバーと会話を楽しんでいる。

中国語を話しはじめたのは、22 年前のこと だった。大学の医局に台湾の高雄から留学して きた脳外科医、孫髢ッ先生とつきあったのが中 国語を学ぶきっかけとなった。

当時、私は腫瘍グループに属しており、実験 と治療成績の調査で忙しかった。脳腫瘍細胞を 培養して抗癌剤を投与し、フローサイトメータ ーという機械で細胞周期を解析していた。ま た、悪性脳腫瘍に対する化学放射線療法の効果 を検討していた。コンピューターソフトを開発 して患者のデーターを入力し、生存率を計算し ていたのである。

そんなある日、医局に行くと孫先生が一人イ スに座ってボーとしていた。どうしたのかと尋 ねてみると、留学はしたものの、見学ばかりで エネルギーが余ってしょうがないと言う。猫の 手も借りたかった私は、「じゃあ、一緒に脳腫 瘍の統計の仕事をしよう」と誘った。

それからというもの、夜の12 時頃まで二人 で病歴室にこもって、カルテを調べてデーター を入力する日々が続いた。孫先生は日本語が話 せないので、英語で意思疎通をはかっていた。

ところが、ある日、私の脳裏をひとつの疑問 がよぎった。アジアの若者同士がこのまま英語 で話をしていていいのだろうか?そこで、頭を 切り替えた。いい機会だから、いっそのこと中 国語を教わってしゃべってみようと思ったので ある。まずはじめに、finish を中国語で何と言 うのかと聞いてみると、完了(ワンラ)という と教わった。そして、英語と中国語の混ざりあ った奇妙な会話が始まった。たとえば、「私、 行く、あした、大学に」といったような語順も リズムも正しくない中国語である。彼は「私の 中国語」を聞くなり、大声で笑いながら答え た。中国語はflexible(柔軟)だから言いたい ことは百パーセントわかると。これに気を良く した私は、ああだこうだとしゃべっていった。 時々、孫先生が正しい中国語に直してくれた。 そうしているうちに語順もリズムも正しくなっ ていったような気がする。

中国語と英語の飛びかう入力、計算の日々の 結果、乏突起神経膠腫の生存率に関する解析が できた。これを孫先生が論文にまとめ米国の雑 誌Neurosurgery に投稿したところ、めでたく 受諾されて祝杯をあげたのは、楽しい思い出で ある。

その後、私は大学からの派遣で、北京の中日 友好医院で共同研究をする機会が与えられた。 孫先生の指導のおかげで、中国人との会話を楽 しむことができた。ところが、ある看護師に 「あなたは中国語がうまい。だけど南方の老人 のようななまりがあるねー」と言われてしまっ た。その時、私はからかわれたような気がした が、「今の中国の指導者はケ小平だ。彼だって 南方の老人じゃないか」と自分を慰め、その後 も中国語会話を楽しんだ。

北京出張後、留学の機会を得た米国でも帰国 してからも孫先生とは中国語で手紙のやりとり をしていた。しかし、しだいに二人とも臨床の仕 事で多忙になり、文通がいつしかとだえていた。

2004 年に開業した後、久しぶりに孫先生に 挨拶状を出した。すると本人ではなく、同僚か ら手紙が来た。「他不在人間」と記されていた。 彼は5 年前に交通事故で亡くなり、もはやこの世の人ではなく、人の間(世間)にはいないと いうことであった。

中国語はflexible と「私の中国語」を励まし てくれた孫先生のご冥福を祈っている。