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の思想」―を

喜久村徳清

三原内科クリニック 喜久村 徳清

『明治開国以来、日本が世界の先進国に追い つこうと国を挙げて富国に励んでいた頃、あの 司馬遼太郎が「坂の上の雲」に描いたような時 代背景で、人々が坂の上のはるかかなたに希望 と期待を持ち続けていた時代に、「暗愁」とい う言葉があった。地道に額に汗して働く時代に 心の満足感があり「暗愁」という言葉は決して 暗いイメージではなかった。文学作品にもたび たび表われ大正、昭和に受け継がれた。第二次 世界大戦後、一度「暗愁」という言葉を使った 作品を見かけたが今では死語となっている』。 これは、作家五木寛之が平成15 年(2003 年) 4 月、第26 回日本医学会総会(福岡市)で多 くの聴衆を前に講演した時の冒頭の部分で、参 会され、ご記憶の方も多いと思う。さらに続け て『戦後の高度成長期があり、バブルの時代を 迎えそしてバブルが崩壊した。その頃から日本 で自殺者が増えてきた。自殺予防は大きな問題 だと感じた。1990 年頃のことで、マスコミ関 係者に報道するよう話してみたが“暗いニュー ス”としてとりあわなかった。今(2003 年) 自殺者が年間3 万人を超えている』。

2000 年から始まった健康日本21 は9 項目の 課題に分け、その一つに「こころ」の問題をと り上げている。そして2008 年5 月28 日の本稿 を執筆している今、マスコミは「自殺10 年連 続3 万人超」を淡々と報じている。

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は万物を形成する元素の意味があり、天地 間を満たす大気、空気、気象等に使用される。 また、生命の原動力としての、精気があり、 根気、気勢、大いに気を吐く、気力の充実等に 使われる。の実体を体感できる身体技法に気 功、ヨーガ、太極拳、健康呼吸法などがあり、 入門書が書店に並び体験講座などにとり入れら れ、かなり普及している。『声に出して読みた い日本語』で21 世紀初頭、一世を風靡したあの斉藤孝は、「 は自然に感じられるもの。技法を使えば上手、下手はあるものの自転車に乗 (れ)るように誰でもは身につく。問題は身 についた気で全てを変えようとしたり、特別な ことをしようとすること」と述べて、にのめ り込む危険を回避するための健康法として、呼 吸法の普及にも努めている。

とははっきり見えなくとも、その場に漂 い、感ぜられるもの(雰囲気、気配、気が詰ま るような室、殺伐とした空気等)という一面を もつことは誰でも経験することであり、多数の 方に認めていただけることと思う。さらに、 「死んだ気になって頑張る」「天下をとった気で いる」という用語は、強い決意、高揚した精神 状態を表現する言い方で、そのを感じた人生 の成熟者は決して少なくはないであろう。

気が乗る(する気になる)。気を入れる(熱心 にする)、気を配る、気を付ける(注意する)、気を遣う(心配する)、気を回す(あれこれと必 要以上に気を配る)、気が急く(心がはやる、 気があせる)。気が勝つ(勝ち気である)、気が 置けない奴(気遣いする必要がない)、気を呑 む(相手を圧倒する)、というような気のつく言 語は岩波書店の広辞苑、三省堂の大辞林等から 容易に引用され、現代に通用する言葉である。

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『「気が利く、気を引く、気を悪くする」と いう心の動き、状態、働きを表わす語がある。 これは「こころ」という語が精神活動を行う本 格的なものを指すのに対して、「気」はその 「こころ」の状態、反応など現象的な面をいう 傾向が強い。「気は心」という言葉も、表面的 な「気」のはたらきは本体としての「心」の表 れであるという考え方に基づいている』(大辞 林)という。

その時々の心の動き、例えば気が腐る(不偶 を恨み沈み込む。くさる)、気が滅入る(気遅れ する)、気が尽きる(嫌気がさす)ような状態が 長引くと、現実喪失感、身体喪失感、虚脱感が おこることがある。症状が重く、長引いてくる と心療内科、精神科関連の医療分野において治 療の対象となる。この身体喪失感のような状態 が、高度技術化・都市化した社会の中で、親密 度の欠如によって起こる疎外感を社会学者デュ ルケームは「アノミー(anomie)」と名付けた。 日常生活でマスコミ報道される事件、事故、不 祥事をみていて、これはアノミーが原因になっ ているのではないかと感じ取る方は少なくない であろう。「何かがおかしい」、「世の中が変にな っている」、と感ずる時、その根底にあるものの 一つがアノミーであり、その前兆、危険性に気 づくことが回避や解決への第一歩となる。

気が散る(散漫になる)、気を取られる(注 意をうばわれる)、気を尽くす(精根をつかい はたす。うんざり)、気が咎める(心の中でや ましく思う)、気を落とす(がっかりする)、気 に障る(不愉快に思う)、気が抜ける(拍子抜 けする)、気が遠くなる(意識がなくなってい く)、気を失う等のネガティブな意味を表わす 気のつく語もある。

女気(おんなけ)、男気(おとこけ)、人気 (ひとけ)、陰気臭い、妖気、瑞気は現在使われ る頻度が少なく、死語になりつつある。そして 死語となった「暗愁」という語を想い出しなが ら、気の衰退が日本国や社会の衰退を予感させ る序章となるのか憂慮している。斉藤孝が指摘 する「 にのめり込む危険」は当然避けなけれ ばならないが、それでも気・や広範な意味をもつ 気のつく熟語を本気で気に留めてみる(意識に のぼらせる、注意する)意義は大きい。

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気が若い。気に入る(好みにかなう)、気が いい(気立てがいい、人がいい)、気が回る (注意がゆき届く)、気が向く(乗り気になる)、 気を通す(気をきかす)、気が大きい、気が小 さい、気が短い(短気、せっかち)、気が早い (せっかち、性急)、気が長い、気がある(関心 をもっている)、気がない(関心がない)、気に なる(心にひっかかる)、気がする(感じられ る。例、敗ける気がしない)、気が気でない (心配でおちつかない)、気にする(心配する、 気がかりに思う)、気に痛む(心にかけて気を もむ)、気が済む、気を取り直す、気の抜けた ビール等、日常生活の中でよく使用されている 気のつく語はまだ多い。

特定健診・特定保健指導が今年始まったが、 保健指導の第一歩は動機付け、「気づき」を促 すことであった。「気づき」は事の始まりであ る。肥満、禁煙、心身の不調、健康感の喪失等 に、さらには社会的不祥事、事件にさえも、 づきがあれば防げえたこともあったのではない か、またあるのではないかと真摯に考える。

自殺者が年間3 万人を超え続けて10 年にも なり、日本の国がグローバル化されるという世 の動きの中で、セーフティネットは本当に機能 しているのか疑問に思うこの頃、国民は自己の 健康を、自己の生活、無二の人生を不幸な出来 事から守るために、そして子や孫にも負の遺産をではなく、持続的に豊かさを遺していくため に、今こそ(気づきを含めた) 、「気の思想」 を(意識的に全力で強力に)文化にまで高め、 広めることが必要ではなかろうか。喫緊の重要 な課題と思えてならない。