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山という記憶の幻のなかで無趣味になった私

久田友一郎

浦添総合病院健診センター
久田 友一郎

初対面の人に「趣味は何ですか」と訊かれる のがつらい。私にはこれといった趣味はない。 あたりさわりのないいい加減な返事をすること にしている。

学生時代は金大医学部山岳部に入り、1 年の うちの3 ヶ月は山での生活であった。夏は剣岳 での合宿後に立山を起点に北アルプスの山々を 縦走し、下山後は富山電鉄から立山の地獄谷診 療所へU ターン、地獄谷診療所や剣岳の剣沢診 療所で診療活動を手伝いながら、朝な夕な澄み 渡った麗姿な自然に包みこまれ、こころ癒され る日もあれば、終日、冷雨や視界不良のガスば かりが続くという山の生活に明け暮れていた。

秋休みはテントの周りに時折熊の足跡もみら れる紅葉の南アルプス縦走、冬は八ヶ岳縦走、 春は数回にわたり白山に登った。白山は、春な お雪深く、わかん(かんじき)とピッケルとア イゼンが必需品であった。テントを担いでいく が、悪天候に遭遇すると、吹雪とともに一日に 2 〜 3m も積もるドカ雪に見舞われる。2 〜 3 日 は雪洞の中でトランプ遊びに興じながらの沈澱 生活が続く。標高が高くなるとアイゼンを使い 登ることになる。遭難騒ぎを起こすほど山にの めり込んでいた。「仁者は山を愛する」と地獄 谷診療所に掲げられた言葉に心酔していた。

当時、黒四ダムの完成後、立山黒部アルペン ルートの開通工事が始まっていた。立山側のト ンネル工事は間組で行われた。学生の身分でありながら、救急医として、飯場生活も経験し た。幸い、落盤事故などの大きな事故もなく幸 運であった。

山は初冬で、登山客もなく、高山植物の時期 はすでに過ぎていた。「高山植物」と「観天望 気」の二冊の本を携え、日中は立山界隈をうろ ついていた。雲の観察による観天望気の天気予 測は全く上達しなかった。夜は毎日工事現場の 人との飲み会に明け暮れ、酒も強くなった。そ こには過敏に牽制しあう神経質な人間関係とな った平成の雰囲気はなく、粗野だが暖かい人と 人との関係があった。

インターン時代の9 月、小屋泊まりなしの単 独行で立山から槍穂高までの縦走を試みた。初 日早々、日本カモシカと鉢合わせしビックリし た。その後は熊と出くわさないか不安に駆られ ながら、けもの道らしき所からから少し外れた ところでビバークした。満点の星を仰ぎ見なが ら眠りについた。その夜は夢に悩まされた。水 くみに沢まで何回も昇り降りする夢ばかり見て いた。それに懲り、翌日からは山小屋で素泊ま りをすることにした。

途中、笠が岳の稜線付近で、空身の人と案内 人らしき荷物を担いだ二人連れとすれ違いざま に挨拶を交わした。その人物は紛れもなく山岳 小説でも一時代を築いた新田次郎であった。

その頃は、山に明け暮れ、光と影、動と静が 織りなす変幻自在な四季折々の山々と向き合 い、命を五感で感じていた至福の時代であった。

しかし、入局後事情は一変した。山へ登る機 会が減り、夏休みに家族と信州の蓼科、美ヶ 原、霧ヶ峰高原、新穂高ロープウェイ終点の西 穂高口や上高地の河童橋から北アルプスや槍穂 高を眺めるようになっていた。

昭和57 年、約19 年の北陸生活に終止符をう ち帰省。その後、私の頭から趣味という言葉は 抹殺された。趣味という点からみれば、ベトナ ム戦争の帰還兵のような生活が始まった。

何を見ても面白そうだが、のめり込む気力は 失せていた。やれ暑い、寒い、時間がないとか の理由をつけている間に、記憶力も怪しくな り、定年を迎える世代になっていた。

ネットで「無趣味の人」を検索してみた。見 るのがいやになるくらいヒットした。こんなに も無趣味の人が多いのか、無趣味の人の共通項 は何か、期待しながら開いてみた。しかし、ネ ット族世代はあまりにも若すぎた。私を納得さ せるものはなく途中で諦めた。その中に「無趣 味だがホームページを開設したい。コンテンツ がないのでどのようにしたらいいのか教えて下 さい」というのがあった。実に多くのヒトが 様々な意見を寄せていた。ネット族の世界では こんなに優しい人間関係があったのかと驚いた。

人類が誕生して450 万年、文字が登場して3 万年、活版印刷革命が起こってから500 年、コ ンピュータ革命が始まって50 年、ネットは益々進化し、犯罪、中傷、いじめの温床にもな れば、競争原理とは裏側の原理で生きていく人 たちが新しい価値を生み出す可能性もある。し かし、ネットサーフィンもまた私に疲れを残す だけである。

時折、本屋で日本百名山をめくると切なくな るほどの熱い思いに駆られる。不思議なことに 学生時代の山行の写真は色褪せた数枚のモノク ロしかない。今、私の部屋には、記憶の糸をほ ぐす優美でかつ強靱なフォルムのアタックザッ クのみが残っている。もはや叶うことはないと 思っているあの学生時代の山行への渇望は、い まだに、長く深く胸に沈みこんだままである。 日野原先生はいう、人は何歳からでも生き方を 変えられると。私は、いまだに記憶の幻のなか で生きている。

立山雄山山頂より剣岳を望む2007.9.23 撮影

八ヶ岳の主稜線、手前は阿弥陀岳、一番奥に見えているのが蓼科山
(岳人「冬山スタンダード10」H 19.1.1発刊より転載)