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ダーウインを疑え、コッホを疑え(後編)

稲福薫

いなふくクリニック 稲福 薫

それでは、この「なぜ、なぜ?」を問い詰め てみよう。なぜ、人はこの世に生まれ出たの か。この地球に生命が生まれたのは、今までの 科学の説によると、ただの偶然の化学反応によ って出てきたのだという。それでは、なぜ、そ の偶然が起こったのか。偶然というが、なぜ、 私に偶然に宝くじがあたって、みんなにはあた らなかったのかを問題にしているのである。な ぜ、10 億分の1 の確立が私にあたったのか。宇 宙物理学でもこれを問題にしている。この地球 ができたのは偶然と言われるが、宇宙開闢の歴 史の中では偶然の確立では起こり得ないとされ ている。現代宇宙物理学の最先端にいる学者達 の一部は、そこには何らかの意思が存在するの ではないか、と思い始めている。そうでなけれ ば説明がつかない、という。イギリスのノーベ ル賞物理学者のジョセフソンはこう言ってい る。「私は若い頃に科学的研究を始めたころに は世界を物の集合体として考えていた。しか し、研究や自然の神秘についての体験が深まっ ていった結果、宇宙というのは物より思考に近 いということがわかった」

わたしも同感である。この世界には意志が敷 衍している。意志は宇宙の開闢とともにあり続 けてきた。いや、宇宙そのものが意志である。 聖書にも一等最初に書かれている。「初めに言 葉ありき」と(断っておくが、わたしは宗教を 信じているものではない)。言葉は意志から発 せられる。すべての物には意志が内蓄されてい る。空気にも、土地にも、石にも、植物にも、 地球にも、星にも、すべて意志が内蓄されてい る。その意志が凝集する。それが生命の始まり ではないか。何故凝集するのかはわからない が、宇宙物理学達者も宇宙の開闢の一等はじめ には真平らの真空に「揺らぎ」が起こったとし ている。ちょうど、しんと静まり返った空気の 中でそよと、そよ風が起こるように。そよ風、 すなわち意志の凝集が「生きようという意志」 である。その「生きようという意志」によって 分子同士がつながり遺伝子を作り、たんぱく質 を作り、それから生命ができたのではないか。 すなわち、生命誕生を究極にさかのぼっていく と、そこには「生きようという意志」があるの ではないか。

「なぜ、それがあなたにわかるのか」だっ て?証拠立てることはできないが、少なくとも 人間はそれを感じることはできる。愛は化学実 験によって証明することはできないが、少なく ともそれがあることは知っているのと同じであ る。なぜなら、われわれ一人一人の生命の中に 宇宙の原初的意志が内蓄されているから。最近 の宇宙物理学では宇宙観測によって宇宙開闢の ビッグバンの音すなわち「ドッカーン」という 音の余韻が134 億光年後の今も宇宙全体に鳴り 響いており、それを観測することができるとい う。その音を逆算すると宇宙開闢の時が134 億 光年前と計算できるという。すなわち、今の瞬 間にも私たちの頭の上に「ドッカーン」という 宇宙開闢の音が降り注いでいるのである。それ と同じように人間個人の心に生命始原の心が内 在しているのである。古来から覚者たちは「宇 宙を知りたいのなら、自分自身を知りなさい」 と言っている。

現代医学は生命の究極はDNA で終わりとす るだろうが、さらにその奥には「生きようとい う意志」が存在するというのである。「生きよ うという意志」が消失すると、すべてはもとの 平坦な地平に戻る。真空である。それはエネル ギーの平坦状態。自殺はその一つである。ある いは無理矢理に真空の地平に戻されることもあ る。病気による死がその一つである。「生きよ うという意思」が物質を集め、生命の形を作 り、「生きようという意思」が消えたときに、 細菌によってばらばらにされ、もとの地平に戻される。細菌は生きる意志の失せたものから順 に地平に返す作業をしているわけである。だか ら、決して細菌そのものが悪ではないのかもし れない。

ところで、「生きようという意志」があるの に、死の病にかかることがある。なぜだろう。 それはストレスによるものではないか。風邪を 引いて長引き肺炎になったすべての人には体に 強いストレスがある。あるいは癌になる人間も すべて身中に強いストレスがある。先にあげた 膠原病や糖尿病についても根底にストレスが関 わっていることが指摘されている。ストレスと は「生きようという意志」の反対側にあるもの ではないか。というのも、「生きる」ことの本 質は「私」という存在が心も体もまわりのすべ てのものと調和的に繋がることである。すなわ ち、空気、土地、植物、動物、食べ物、家族、 職場、社会、地球、太陽、宇宙、など私を取り 巻くすべてのものに内在する意志と私の意志が 合一になって初めて生命の調和状態になる。そ れを例えば「和」と表現しよう。「和」こそが 「生きる」ことの真相ではないか。「和」がスト レスのない状態であり、人間の健康の究極な状 態である。そして、人間以外のすべての動植物 はその「和」の状態にある。人が動植物に癒さ れるのはそのためではないか。

ところで、その「和」を破壊するのが、「私 という自我」ではないか。「私という自我」が 出現した瞬間に「和」が消え、ストレスが発生 する。そして人間だけがその「我」を追及して いる。さらに、この現代社会のほとんどすべて の人間が自我を追いかけ回している。すなわち 我欲の追求である。それが積み重なってできた のがこの現代社会であり、そのため社会全体が 「和」を失っている。現代世界を危機に貶めて いる原因はここにあるのではないか。そんな我 欲にはまった心の状態を昔の人たちは悪あるい は悪霊と称した。すなわち悪霊とはどこかよそ にあるものではなく、われわれ一人一人の心の 底に潜んでいるのではないか。

人類には知恵の蓄積があった。それは何千年 も何万年もの長い間受け継いできたものであ る。古来、どこの社会でも、人間あるいは社会 を破滅させる心の中の悪を退治する知恵を培っ てきた。それは先住民族の文化の中に明らかで ある。この時代が混迷しているのは、そんな人 類の最も大切な宝物を、核心に至る前でしり込 みして逃げているだけの「科学」で非科学的と して切り捨ててきたせいではいか。あとは我欲 だけがこの世を支配することになった。

よく、「あなたの言っていることは科学的では ない」という人がいるが、科学的に追求してい ない人間に限ってそんなことを言う。真の科学 者は、最後までなぜ?なぜ?と追求するだろう。 そして科学を、出世のためではなく、名声のた めでもなく、お金のためでもなく、すなわち我 欲のためでなく、単純に心の底から湧き出てく るなぜ?なぜ?で問い詰めていくだろう。そん な学問こそが現代の窮状を打破し、この混迷の 時代に光をもたらしてくれるのではないか。