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スペシャリティーを追い求めて
〜鹿児島での内視鏡研修〜

齋藤学

浦添総合病院救急総合診療部
齋藤 学

沖縄の師匠に弟子入り

リーダーなき専門家集団は「船頭多くして」 の愚をおかす可能性があり,チームの力量を十 全に発揮することができなくなる。2 + 2 は4 でなければならないのに,往々にして2 + 2 が 3 にしかならなかったりする。それは,お互い が自分の専門領域のことばかりにこだわった り,逆に“お見合い”をしたりするからであ る。統率のとれた専門家集団は2 + 2 が5 にも 6 にもなるし,そうあらねば,損傷の相乗とい う意味で2 + 2 が5 にも6 にもなる多発外傷と 闘うことはできない。

これは現在の師匠、井上徹英救命救急センタ ー長(現院長)がある医学雑誌Lisa に書いた 一文である。この文章がきっかけで私は井上先 生に弟子入りすることを決意し、沖縄に来た。 将来はプライマリケア・地域医療・ジェネラリ スト・・・要は何でも診られる医者になりたか った。

ジェネラルとは対極の場

平成18 年9 月から平成19 年2 月までの半年 間、鹿児島の慈愛会今村病院の本院および分院 の消化器センターで内視鏡を学ぶ機会を得た。 最初の3 カ月は今村病院本院の消化器内科部 長、大井秀久先生の下で研修をした。大井先生 は炎症性腸疾患の大家で、鹿児島の炎症性腸疾 患の患者のほとんどを一手に引き受けている。 むしろ、患者がそして医師が大井先生に診ても らいたいから集まったという表現が妥当であ る。大井先生は「自分が家庭教師をした学生は すべて成績が落ちた。」と自らを指導下手と評 していたが、「持っている知識は全て教える」 ことが教育理念である。

外科医を翻弄する内科医

毎朝、内視鏡室に出勤し、自分が使う内視鏡 のレンズを磨くことから研修は始まった。検査 の合間を見ては、段ボールの中でカメラを動か し、自分のカメラ操作で画面がゆれるあまり、 頭痛や嘔気が出たこともあった。大井先生は、 午前中に15 件前後の上部消化管内視鏡検査を、 午後に5 件前後の大腸内視鏡検査をこなしてい る。手術室から呼ばれ、外科医から切除範囲の 相談をされたり、摘出した胃や腸の切り出しを して、外科の研修医に指導することも度々ある。 1 枚1 枚の写真を撮るたびに、「それは胃と腸に 載せられるか?」と問われ、カメラのシャッタ ーを押すたびに、背中に汗をかく日々が続いた。 非常に丁寧に胃を観察する大井先生から、ある 時、緊急時のカメラ操作を教わった。カメラを 横に振るのではなく、縦に振るのだそうだ。そ の時の迫力とカメラに対する姿勢に圧倒され、 衝撃のあまりしばらくは声がでなかったのを覚 えている。早期癌を見逃さない丁寧な観察法の みならず、救急医療に必要な迅速な観察法を理 論立てて教えられたのは初めてであった。後半 には、大腸内視鏡も教えて頂いた。昼食はほと んど、お互いの夢を語り合ったり、大腸内視鏡 の挿入方法について食堂で熱く講義を受けた。 一人の大きなロールモデルに出会った。

もう一人のロールモデル

後半の3 か月は、分院の消化器内科部長、高崎能久先生の下で学んだ。こちらは、本院と違 って、5 人の常勤医を有する大型の消化器セン ターだ。高崎能久先生は、20 年近く前に一人 で消化器内科を立ち上げ、今や鹿児島県の胆道 系疾患を一手に引き受ける分院の看板医師だ。 一見寡黙だが、内視鏡を握ると目つきが変わ る。教育にも非常に熱心で、数多くの優秀な消 化器内科医を輩出してきた。誰もが認める、執 念の塊の先生である。例えば大腸内視鏡では、 屈曲部を越えられないと10 分くらいで選手交 代であるのが一般的である。しかし、高崎先生 はこちらがSOS を出しても、先生自身が危な いと判断しない限りは、絶対に代わってくれな い。確かに屈曲部の越え方は、何パターンも頭 の中に入っている。それをどのように駆使する かは、他人の手技を見てばかりでは上達しな い。ある一定のレベルを超えるには、一定の粘 り強さを持っていないと不可能であることを教 わった。高崎先生は常に最後の砦として、分院 の消化器内科を守ってきた。他のスタッフが断 念した手技も、ことごとく成功させている。自 分が鹿児島県の最後の砦であることを楽しんで いるかの様に、カメラを自由自在に操ってい た。体は小さいが、非常に存在感のある先生で あった。

半年の研修を通して得た物

ジェネラリストになりたいのに、なぜ専門研 修なのか?周囲からは不思議がられた。

救急医はオーケストラの指揮者のようなもの である。各楽器の演奏はしないが、各楽器の特 徴や引き立たせる方法は熟知する必要がある。 各奏者と議論になることもあるだろう。その 時、奏者とは対等な立場で、物事を議論できる かどうかで指揮者として存続できるかが決ま る。先に述べた、多発外傷の患者を診療する 際、リーダーになる医師は、そこにいる年長の 医者でもなければ、声の大きい医者でもない。 すべてのバランスを考慮した救急医である。た だ、その救急医は他の専門家と対等に議論がで きないと患者は助からない。相手と同じ土俵に 立つことを追及したら、救急医も相手から一目 置かれる専門性を身につける必要があることを 教えられた。これから内視鏡をしていく上での 教育は、この半年で十分すぎるほどの教育を受 けたと思う。あとは、自分自身で症例を経験し たくましくなっていくことに執念を傾ける時期 であると肝に銘じて、沖縄での内視鏡研修を継 続してきたい。

今回、消化器内科というジェネラリストとは 対極にあるスペシャルな場所での研修を選んだ のは、真のジェネラリストを追い求めての選択 であった。

最後に

今回、快く研修に行かせてくれた救急総合診 療部の仲間、遅くまで検査に付き合ってくれた 今村病院本院および分院のみなさん、そして研 修の場を提供してくださった井上徹英先生に心 から感謝を申し上げたい。