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移る世の流れと共に

嶺井定一

嶺井医院泌尿器科 嶺井 定一

沖縄では昔から干支の生れ年を生年祝い、あ るいは厄年としている。内地の生年祝いとは多 少年齢に差がある。今年は子年で、私も一昨年 既に古希を迎え「人生七十、古来稀なり」と唐 の詩人杜甫の詩「曲江」の中の句であるが、私 自身何時までも若い積りでいたが、もうそのよ うな年齢となり、抱負を尋ねられても過ぎ去っ た日々の自分自身の言動を省みるに慚愧に堪え ない思いである。

高校卒業以来54年、大学卒業後47年、医院 を開業して37年目になる。私の70年の生涯を 振り返るに私達の世代は戦争という大変な境遇 を経て今日に到っており、我乍らよくこれまで 生きてこれたものと思うのが実感である。

昭和19年の夏になると学童疎開が開始され、 私も天妃国民学校の先輩と疎開を予定していた が、その後家族と一緒に疎開することが決まり 対馬丸に乗船せずに済んだ。当時、那覇市旭町 に住んでいたが、10月10日の米軍による大規 模な空襲をはじめ度重なる空襲に遭い、昭和20 年3月の最後の疎開船にも港まで行きながら乗 船することは出来なかった。3月23日那覇市の 非戦闘員に立ち退き命令があり、北部へ避難を することとなった。しかし当時、私は沖縄熱と 呼ばれていた得体の知れない疾病に罹患し高熱 が続き到底北部への移動は不可能と思われてい たが、山里将人先生の父上山里将貞先生が私達 が避難していた牧志町の防空壕まで往診し下熱 剤を注射していただき着の身着の儘で、父に担 がれて砲爆撃を避けながら約一週間を要し旧金 武村まで移動することが出来た。しかし何処の 壕も避難民で溢れ、なかなか容れてもらえず、 やっと旧大里村民が避難していた壕に入れても らったが、その壕は壕とは名のみで岩壁の凹み に木や草でカムフラージュを施しただけの心許 ない場所であった。そこへ3日間だけ滞在し夜 中にその壕を出て山中に避難したが、翌朝未明 にその壕に直撃弾を受け一人の生存者を残し多 数の人が爆死しており、私達家族は危機一髪難 を逃れた。その後、米軍が上陸し金武村附近ま で侵攻して来たとの情報で北へ北へと山中を逃 避行することになった。名護市辺野古の美謝川 上流まで逃げ延びたが、そこで米軍に追付かれ てしまった。当時の米兵はスペイン語圏出身者 も多く私の父がアルゼンチン帰へりでスペイン 語を話せたので彼等と接触し米軍は民間人には 危害を加える様子は無かったので投降して難民 収容所に収容された。収容所は北部の旧金武 村、旧宜野座村、南部の旧玉城村字船越、旧大 里村字大城を転々とさせられ解放後は父の郷里 である旧大里村字古堅に落着いた。従って、戦 中戦後の混乱した世相で学校教育は幼稚園と大 学は正規に学んでいるが、小学校、中学校、高 等学校は校舎、机・腰掛も無く、その作業に駆 り出され総てが中途半端である。以上のように 第二次世界大戦の戦禍が熄んで62年という歳 月が過ぎ去って戦争は過去の出来ごととなった が、しかし私達の世代までは未だ戦争という過 去を摺っている。

友寄英毅那覇市医師会長は、天妃幼稚園・国 民学校低学年時の同期で学芸会では常に主役の 桃太郎役等を演じ、幼少の頃よりカリスマ性が あった。仲里利信県議会議長、仲里全輝副知事 も知念高校の同期である。それぞれ立派に職責 を果たしているが、私自身これまで世の為に何 を為し得たかを思うに赤面の至りである。しか し此のような立派な同輩に恵まれたことは私の 自慢であり誇りでもある。

最近は、同輩が黄泉への旅立ちも多くなり戦 後外国へ雄飛した幼友達までも悲しい知らせが 届くようになり、一抹の寂しさを感ずるように なった。私は一昨年の11月満70歳を迎えると 同時に健診で右中肺野の異常所見を指摘され、 精査の結果、肺癌の診断を受けた。これでいよ いよ運も尽きたかと人生の終りを覚悟していたが、開胸し肺切を受け摘出臓器の組織検査で肺 癌ではなく、肺放線菌症で年間数例しか発生し ないと云う比較的稀な疾患であることが分かり 胸を撫で下ろした。

今日の医療界も激変の時代を迎え、医療制度 については医療側にとって理不尽な憂慮すべき 点が多々あるように見受けられる。そして「有 為転変は世の習い」とも云われるが、最近の世 相の目まぐるしい変遷にはこの年齢になると 「老い木は曲らぬ」の例え通り付いて行くのが 億却となってきた。これより先、どのような時 勢が訪れるか分からないが「和して同ぜず」と 云う言葉もある通り世の流れに逆らわず和を以 って事柄に接することが、時代遅れにならない 秘訣ではないかと思われる。雲流るる果てに希 望の星をみつめて。Hasta ahora!