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えと・ねずみどし(子年)に因んで

新垣敏雄

順天堂クリニック 新垣 敏雄

日本では季節や年号と特定の行事や呼称が、 一致している事が多い。例えば甲子園、甲辰小 学校、慶長の役、戊辰戦争等である。

2008年の子年に因んで書くよう指名を受け たので、改めて年中行事、祭り、生年祝、法事 など暦と干支に思いを廻らしてみた。

生年祝・法事:

本土では、還暦(61才)古希(70才)喜寿 (77才)傘寿(80才)半寿(81才)米寿(88 才)卒寿(90才)白寿(99才)と生年祝があ るが、沖縄では旧暦と干支にからめての祝事が 多く、本土とは趣がだいぶ違う。還暦は旧正月 がすぎて最初の干支の日にお祝をする。古希に 当てたのがヒチジュウサン(73才)のウユウェ ーと呼ぶので、2つ年をとったような型になる。 喜寿・傘寿のお祝いはないが、85才を祝い、88 才の米寿を祝ってトーカチ祝と呼ばれている。 卒寿・白寿のお祝もないが、97才をカジマヤー (風車)祝として、旧暦の9月7日に祝う。

暦:

暦も国によって色々あり、ギリシャ暦、ロー マ暦、マヤ暦,中国暦、イスラム暦等がある。 世界一般的には太陽暦(グレゴリオ暦)が使わ れている。しかし、北半球地域では冬至(昼間 が一番短い日)の後の1〜2ヶ月後が新年と設 定されているとのことである。中国は現在も旧 暦の正月を祝っているが、これは冬至の後の2 回目の新月の日を元旦と定めている。

沖縄では諸行事が旧暦(太陰暦)にあてて行 われている場合が多い。一途に太陰暦だけで押 し通すと太陽暦より11日ほど短くなる。そこで 閏月(うるう月・ユンジチ)を設けて調整して いる。平成18年は旧暦の7月が2回あるユンジ チ(うるう月)であった。閏月はあの世の先祖 から目が届かない時とされ、先祖の「たたり」 を受けないよう、その時期に墓を造ったり、仏 壇や位牌を買い替える習慣がある。

干支と還暦:

干支えとです」と簡単に慣用されている が、干支(かんし)が何で「えと」になるんだ ろう。えとは十干と十二支を組み合わせ、これ に東洋思想の基本になっている陰・陽と五行を 連結させたものである(表1)。十干の甲乙を 木、丙丁を火、戊巳を土、庚辛を金、壬癸を水 にあて、十干の前半を陽(兄・え)後半の5つ を陰(弟・と)と設定し、十二支を12種の動 物に当ててある。本来は兄弟(えと)であった のが、いつしか干支えと と呼ばれるようになってい るとのことである。表1のように甲子(きのえ ね)から始まって、癸亥(みずのとい)までを 年号に当てはめると暦が還るのが60年になり、 還暦の表現となる。

甲〜〜癸までの十干は、両手の指の数が10本 であることが基本的要因と考えられている。中 国では10日を単位として「旬」を用い、上旬・ 中旬・下旬の表現があり、旬は「満たされる」 「満了」の意味があり、味が満たされる時期「しゅん のもの」と云う言葉が残ったとされている。

干支と日時と呼称:

琉球王国時代、日本の江戸時代、中国では現 在でも文書の日付は干支で書かれている。高嶺 徳明の家譜は皇清雍正八年庚戊(1730年、享 保15)冬10月穀旦となっている。鹿児島川内 市で見つかった巻物「神仙秘法」は、康煕庚午 玖月(1690年、元禄3年、9月)中山久米村魏 士哲渡具地親雲上書となっている。古文書を読 む上でも干支暦は大切である。球児の聖地甲子 園球場は、大正13年起工式を行った時が、最 初の甲と子で、60年に一度重なり合う縁起のよ い年に因んでつけられた。大正13年8月の第10 回高校野球大会から開催された。改修工事に入 るようだが、呼称はそのままだろうか。後楽園 球場は東京ドームとなっているが・・・・。

那覇市の奥武山球場も全面改造されるように なった。どのような呼称となるのだろうか?。