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医師へのあこがれ

島袋良夫

島袋内科医院 島袋 良夫

新春 お慶び申し上げます。

私は7,107の群島国の比島のミンダナオ島、 ダバオ市近くのアポ山ろくのマニラ麻栽培の農 場で生まれ、終戦8歳まですごし昭和20年11月 に鹿児島の加治木町へ上陸し、まもなく大分県 の杵築町のお寺の広い空部屋へ収容され、9歳 時に父をなくし昭和22年沖縄へ母弟3人で帰っ た。中学1年に体育時間に鉄棒の回転時に転落 し肋骨骨折を負い、コザ中央病院のコンセット 作りの病院へ入院し死ぬかと思い、ほどなく治 ったので大変嬉しく、医師、看護師に感謝しこ れをきっかけに医師をめざすことになる。

中学時代、高校時代、生物クラブで活動し た。当時、沖縄は米軍が政治をつかさどる外国 (植民地)、国費留学制度があった。日本政府よ り奨学金を貰い日本各地の大学へ入学出来たの で、念願の医学部へ受験し、失敗した。上京 し、1年間予備校生活、その後あこがれの医学 生になった。入学2ヶ年間は教養課程、3年目 に医学関係の専門課程を学び色々学ぶ事が多く て遊ぶ時間はほとんどなかった。6ヶ年間の医 学生生活を続け無事に卒業出来た。その後1ヶ 年間大学近くの都立病院で研修(インターン)、 各科を一定の日程で修めた。このインターン時 に将来は内科の選考を心に決めて現在に至って いる。その後、国家試験医師免許を得る。直ち に母校の内科へ入局、特別研究生となる。午前 中は教授と共に外来診療、午後は生活費を得る ためにアルバイト、夕刻より深夜にかけて「真 菌アレルギー」のテーマを与えられ研究室へこ もる日々であった。6年後に助手、小額の給料 を貰うこともあった。大学内科医局生活8年間 「真菌アレルギー」で博士号を貰う。この8年間 には色々なことがあった。インターン時代に家内と結婚。教員をやめさせ、東京で保険会社へ アルバイトをさせて生活費を得た。医師になっ て4ヶ年目に長野県の大学附属病院へ1ヵ年4ヶ 月出張。給与も高く貰えて、ゴルフも学び、四 季がはっきりしたところで、職員とも親しくな り、楽しい思い出もたくさんある所でした。東 京へ帰ってから教授から自衛隊市ヶ谷駐屯地医 務室へ応援診療を命ぜられた。まもなくアルバ イト先医務室の先輩の所長に勧められるまま入 隊した。医官として開業するまで10ヶ年間務め た、この間、大学医局では研究を続けさせて貰 った。自衛隊生活の中で英会話学校も6ヵ月間 入校し勉強し、その後、若手医官平和国際学会 へ10日間ベルギーへ出席し、フランクフルト (独)1泊、パリ(仏)3泊、ロンドン(英)2 泊と観光して帰宅。緊張もあったが、楽しい一 人旅でした。その後、熊本駐屯地で体験報告会 や自衛隊衛生学会も市ヶ谷駐屯地の大講堂で開 かれ、午前中沖縄の医療状況や琉球放送のテー プで無医村の看護師の巡回している姿を30分 余り放映して全国から集ってきた医官や衛生兵 の前で報告した。昭和47年自衛隊が沖縄へ移 駐、それに合わせて医務室も開設。開設時は中 部地区医師会長太田為雄氏(故人)や県立病院 長新垣浄治氏や新垣哲氏、他同窓の諸先生方の 支援で県医師会長の大浜先生の相談の上でスム ーズに開設された。

当時、沖縄市は美里村とコザ市の合併前でほ とんど夜間の一般診療がされていなくて困って いた。そこで中部地区医師会長と県医師会長大 浜氏を通して山中防衛長官の特別の許可を貰い 夜間診療を開設し休日も返上し診療した。周辺 住民から大変喜ばれた。その後合併して沖縄市 になり昭和53年4月より沖縄市立救急診療所が 開設され自院での夜間診療は閉じて、沖縄市へ 輪番で協力してきた。

ふり返って医学は日進月歩進歩していて遅れ を取らないよう勉強しているが、核医学や電子 メールや電子カルテにはついていけない状況で ある。私も古希を迎え自分の健康も考え無理し ないで医の道を極めて行くよう努めている。こ れまで色々なことがあり、役目を果たすことが できたのも多くの先輩方や恩師の方々の御支援 の賜物と思い紙面をかりて新春に当りお礼し深 く感謝申し上げたく思っている次第です。謝々