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若い医師へのメッセージ

宮良忠

那覇市立病院 内科 宮良 忠

今回医師会より『若手医師へのメッセージ』ということで原稿依頼があったが、私自身は卒後15年経過しているものの当院の内科スタッフでは一番下っ端の方なので自身を若手医師と思っており違和感があった。更に技量も未熟で常々研修医から教わっていることも多くメッセージというものを述べる資格すらないような気もする。だから、賢明な研修医の諸君はさっさとこの駄文を切り上げ別の稿を読むのを強く勧めたい。私のような冴えない研修医やうまく研修がいっていない人には少しは参考になるようなことは述べられるかもしれない。でも大したことではない。うまくまとめる能力もないので、これまでを振り返りながら思いつくままに述べてみることにする。

私は平成5年自治医科大学を卒業し県立中部病院で2年間の初期研修後八重山諸島の波照間島、西表島の診療所に合計4年勤務した。(卒後6年目に1年間はリフレッシュ研修で中部病院研修)その後2年間中部病院で内科研修(腎臓内科)し、現在の病院で勤務している。

初期研修医時代は正直きつかった。大した知識も技量もなく、何もできない上に周囲には優秀な同僚が多くコンプレックスだらけのスタートだった。日常業務も毎日数名のアドミッションノートを記載し、その合間に患者の処置・スメア・血培採取・急変患者の対応などであった。dutyも多く最初の1年はほぼ毎朝の採血があり、当直はERと病棟を合わせて月10回くらいだっただろうか。それでも病棟業務が終わればポケットベルのスイッチをオフにして同僚と共に居酒屋や中の町へ繰り出し店内に“蛍の光”♪が鳴り響くまで騒いだりした。2年目は病棟主治医となるため責任も大きく病棟でのカルテ書きが日付を超えるのもたびたびあった。研修はハードであったが、多くの同僚や上級医に助けられた。ナースにもいろいろな基本的な事を教えていただき、時には夜食の面倒もみてもらった。この初期研修二年間で決して優秀ではない自分がとりあえず離島診療所に赴任するにあたり最低限度のことは身に付いたのは研修システム(多くの症例を経験できたこと、屋根瓦式研修など)や同僚、上級医のお陰だと思う。特にハードな研修を乗り切れたのは同級生によるところが大きい。互いに励ましあい、切磋琢磨(それとも反面教師だったか?)することでどんどん成長できることを実感した。多忙の中にも同僚や先輩後輩と夜の街に繰り出すのは続いていた。アルコールによる発散が主だったことは如何なものかと思うが、それでもある程度のストレスが発散でき、また、オン・オフの区別ができるようになっていたことはストレスの蓄積が少なく良かったと思う。

3年目から離島診療所勤務となった。不安もかなりあったが、その中でも小児診療はプレッシャーが大きかった。というのも島へ赴任する前から大学の先輩より常々“子供は島の宝物だよ。無論個々の家庭のものだが、島全体の子供でもある。”と言われてきたからである。赴任して2か月くらい経った頃だったが、その日の診療も終了して帰宅して間もなく、中学校の教頭先生がやってきて中学生が蜂に刺されたからとりあえず診察してくれというものであった。数人にかかえられてやってきた中学2年生の男子であったが冷汗著明であり、意識混濁もみられた。脈を触れようとするが触れない。アナフィラキシーショックだった。“やばい、早く治療しないといけない”と思いながら、それとは別に脳裏には先輩から言われた言葉が駆け巡り、同時にこの子供に何かあれば島から追放されると思った(本当に)。診療所の看護師さんは診療終了後ジョギングに出かけるのが日課であり不在であった。当然ライン取り、ラインの組み立て、エピネフリンをアンプルから注射器へ移すのも、バイタルを測定するのも・・とにかく全て一人でやるしかなかった。やることはわかっているが、ひとりで行うと時間がかかる。この中学生の状態が安定するまでとても長く感じた。ERなら多くの人達が分担し治療にあたるため数分後にはすべて初期治療は終了し薬剤への反応を待つという感じだったのだろうが。これまでいろいろな人との関わり、助け合いの中で治療をしていると漠然と感じていたが、この時程医療がチームワークで成り立っていて決して医師だけのものではないと痛感したことはなかった。

最初に赴任した波照間島は人口600人くらいの小さな島であった。重症患者が発生するとヘリコプターで親病院へ患者を搬送することになる。1年目の年は12人のヘリコプターでの搬送患者がいた。2年目は10人。3年目になると3人程度と極端に減少した。当時は現在ほどインターネットが普及しておらず、情報も限られていたため年々自分の知識が低下していくのがわかったが、それでもヘリコプター搬送患者が減少したのは、住民との信頼関係が多少生まれてきたからだと思う。診療所に受診しなくても近所の人から情報が入ったりして早めに対応できるようになったことが多かったからである。その延長ではあるが本来なら入院が必要な患者さんでも家庭の事情などで島を離れられない人や島から離れたくない人も多くなり診療所での入院や往診も増えた。

現在内科医として勤務しているが、研修医時代、離島診療所勤務時代から学んだことはたくさんある。どの科でもそうだが特に内科では“先手必勝”が重要ということである。つまり、治療が後手に回ると重症患者程大変苦労するというごく当たり前の事である。いかに早く、正確に患者さんの情報を手に入れるかが大切だということである。そのためにはベッドサイドへ足を運ぶことを躊躇わずにすることである。私が研修医の時にあるスタッフから“君たちは何もできないのだから、せめて患者さんの心配くらいしなさい。”と言われたことがある。患者さんの立場になって考えたり、感じたりする重要性をいっていたと思うが、心配すると気になり顔をみたくなる。そして確かに頻回に患者さんのところへ行くようになると早めに体調の変化に気づいたり、聞き洩らしていたりした事や新たな情報が得られたりすることが増えた。治療効果だけでなく患者さんとの関係もうまくいくことが多いような気がする。当院でもそうだが、ラボデータ、画像偏重がみられる。もちろんラボデータや画像から得られる情報は重要で現在の医療に不可欠なものであることは周知のことである。しかし、特に研修期間はもう少し患者さんと向き合うことも大事だと思う。実際にあったケースだが、ERに発熱、胸痛を訴えてきた患者さんに採血し、心電図、胸部レントゲン、CTを撮影して胸痛の原因がわからないと言われ、診察してみると前胸部に水疱が横並びにあるのをみて(帯状疱疹)愕然としたことがあった。これは極端な一例だったが、実際は診察や検査で判断できないことも多い。そういう時にこそ再度患者さんのところへ足を運ぶことが大事である。老刑事の様に判断に迷ったら現場へ足を何度でも運ぶのも地味だが渋くて格好良さを感じるのは私の年齢のせいだろうか。最近でいえば、富豪刑事の深キョンよりもHEROのキムタクが好きだ。(近日公開らしいが・・)