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中国満州への旅
731部隊(通称石井部隊)跡を訪れて考えたこと

仲里尚実

かりゆしの里 仲里 尚実

昨年9月、満州へ7日間の旅をする機会を得 た。主な視察先は瀋陽の柳条湖、旅順の203高 地、ハルピン郊外・平房の731部隊跡、北京の 盧溝橋などである。この旅の目的が何であるの か、日本近代史を学んだ者ならすぐに分かるで あろう。私が今回の旅に応募した最大の理由 は、そのコースに731部隊跡の見学が組み込ま れていたからだ。

沖縄を発って4日目の夜、瀋陽駅から寝台列 車に乗り込んだ。7時間後の早朝、列車は終点 のハルピン駅に到着した。中国の列車は昔から ほぼ時間通りであるという。ハルピンは満州の 主要都市の中でも北のほうに位置する。9月の 早朝は沖縄の真冬なみであった。それでも私の体は火照っていた。列車の中で飲んだ酒のせい だけではなさそうだ。731部隊のすぐ近くまで 来たということが私を興奮させていた。

まだ30歳過ぎの青年医師の頃、森村誠一の 「悪魔の飽食」(1980年)を読んだ。旧満州国 で731部隊が行ったとされる、捕虜を使っての 人体実験の様子が生々しく記述されており話題 を呼んだ。ベストセラーにもなった。

私はすでに外科医になっており、血にも遺体 にも“慣れて”いたはずであるが、読み進めて いくうちに吐き気をもようしてきた。ドギュメ ンタリーを読んで興奮したことはあるが、吐き 気に襲われたのは初めてであった。

731 部隊(関東軍防疫給水本部満州第731 部 隊−通称石井部隊)跡へ

早朝の到着のため、ホテルでひと時休息した 後に食事をとり、バスで731部隊跡に向かった。 1936年に731部隊は設立され、ハルピン近くの 平房に大規模な施設を完成させた跡は部隊長が 石井四朗中将であったため“石井部隊”と通称 された。主として細菌兵器の研究と細菌戦の実 施を専門とした部隊であったが、毒ガス、薬 物、凍傷実験その他、人間を対象とした、考え られるあらゆる実験がなされた。

到着したのは午前9時ころである。快晴の空 に徐々に暖かい秋の日差しが増してきた。バス が止まったのは、6キロメートル四方はあった という旧敷地の正門に位置する、二階建ての部 隊本部跡(再建・現在は陳列館)前であった。

とうとう来たか。あの時読んだ「悪魔の飽 食」の舞台になった、作り物ではない本当の場 所だ。まだ朝の早いせいなのか、我々以外には 見学者は数えるほどしかいない。日本人の一般 観光客はもちろん見えない。

陳列館に入った。照明はかなり薄暗く設定さ れており、ガラスの中の陳列文書、物品、薬 品、医療器材、人形のジオラマが薄暗い陳列室 の中でそこだけが明るく照らし出されている。 麻酔下での生体解剖の場面、抵抗する“マル タ”を押さえつけ無理やり細菌を血管に注入す るジオラマの前では、予想はしていたものの、 さすがに頬が引きつった。

部隊の医者・研究者たちは実験材料となる捕 虜たちを“マルタ”と呼んだ。最初から彼ら中 国人、朝鮮人などを人間と見ていなかったの か、生きた人間ではなく“マルタ”としておれ ば良心の仮借なく切り刻めるからと、トップが 思いついたのかは分からない。ロシア人をも含 め、三千人ものマルタが犠牲になったと記録さ れている。

731部隊の罪業を、反日を煽るための“作り 話”であると主張する人々がいる。彼らがここ を訪れた後にそう言っているのかどうかは不明 だが、陳列館を一通り見終わった後、私にはむ しろ“かなり抑えられた”展示だと思えた。人 形を使ったジオラマは、報告された数限りない 非道な人体実験のほんの一部である。

おだやかな秋の日ざしの中で

息をつめながら1時間ほど室内の展示物を見 たあと外に出た。陳列館の裏手に抜けると建物 のない広い敷地であった。あまりよく手入れさ れてはいないが所々に芝の広場がある。日差し が強くなり、汗ばむほどになってきた。

向こう側に巨大な煙突が2本見えた。発電所 跡だという。原型を留めているのは煙突と一部 の壁だけで、殆どが破壊されている。部隊は撤 退の時、資料のすべてを持ち出し施設は爆破破 壊した。生きていたマルタは殺された。発電所 の裏手には部隊用の列車線路が引き込まれてい た。部隊のすぐ隣には専用の飛行場もあったと いう。

比較的建物の外観が残っていたのは凍傷実験 室であった。建物の中央を貫く幅10メートルほ どの通り抜けがあり、実験班はここにマルタを 杭に縛りつけ、左右の室内から観察した。冬の ハルピンは昼でもマイナス二十度の寒さであ り、夜はマイナス四十度以下となる。医学生時 代に仙台で暮らした時の冬の最低気温はせいぜ いマイナス5〜6度であった。想像ができるも のか。

通り抜けの反対側の出口を出たとたん、穏や かな秋の日ざしに包まれた。コスモスが柔らか い陽を浴びかすかにそよいでいる。今出てきた 実験道が夢のように思えた。

家に帰れば良き父、良き夫たちが・・・何が彼ら をそうさせたか?

731部隊の広き敷地の一角に隊員たちの官舎 が立ち並んでいた。もちろん今はその痕跡もな いが、彼らは、特に医師や研究者たちは厳寒の 満州の地でも暖かな家と家庭があった。朝、妻 や子の笑顔に送られ職場に向かう。職場で実験 服に着替えたとたん、彼らは鬼になった。いや 鬼でさえ彼らのメスがマルタの生体を切り刻 み、毒薬・毒ガス・ペスト菌が容赦なく注入さ れるのを凝視できただろうか。

飢餓実験で骨と皮のみに痩せさらばえた捕虜 の死体をマルタのごとくトロッコに放り入れ、 熱いシャワーを浴びて家路につく。家では暖か な夕食が待っている。

昨年末から年始にかけて、肉親による殺人と 遺体バラバラ事件が連続した。犯人が兄や妻で あると分かったとたんに我々は職場や飲み屋で にわか精神分析医となる。ほとんどが当たらぬ 分析なのだがいいことなのだ。我々が人間的に “真っ当な社会”に住んでいるという前提での 分析なのだから。

ナチスのユダヤ人大量虐殺、アフリカでの部 族間の大量殺戮の応酬、イラクでの宗派間抗争 による殺し合い…昨日まで良き隣人として食べ 物も差し入れあっていたもの同士が、指導者た ちの誘導とプロパガンダに乗せられ明日から憎 しみあい殺しあう。個人の憐れみや哀れみの心 などは大きな政治的濁流にいともたやすく飲み 込まれてしまう。流れに乗らないと自分も“獅 子身中の虫”として抹殺されてしまう。

先日大阪で第27回日本医学会総会が開催さ れた。その一角で「戦争と医学」のパネル展示 が出展された。また同時に別会場で実行委員会 による国際シンポジウム(日本の医学者・医師 の「15年戦争」への加担の実態と責任)が開催 され300人ほどが参加した。シンポジストは現 在の731部隊罪証陳列館館長の王鵬氏、ハーバ ード大学公衆衛生学部教授のダニエル・ウィラ ー氏、「15年戦争と日本の医学医療研究会」の 莇(アザミ)昭三氏であった。

“良き夫、良き父”でもあった医学者たちが 悪魔にもなれる構造を、ダニエル教授はこう分 析した。すなわち、「被験者(731部隊では“マ ルタ”)に対する医学研究が1)国家安全保障のた めに(すなわち“戦争に勝つ”ために)、2)国家 の有事の期間(戦争中に)、3)外国人に対して、 そしてとりわけ外国の地において、4)自分が差 別している相手に対して…行われるときに成立 する」。なんとなればそれは単に個人の学問的興 味のみからであると責められる事はなく、国家 の意思であり国家の利益に資するからである。 しかも実験対象ははるかに“価値の低い”もの とみなされている。後になりその行為を追求さ れても、「実験の現場では命令されたから拒否で きなかった」と言い逃れ得るのである。

731部隊の中心メンバーは医師や研究者たち であった。本来なら病に苦しむものたちを救う ことを職としている。研究者としての功名心が あったとしても、この“国家の意思”がなけれ ばこのおぞましい行為は不可能だったろう。 「大東亜共栄圏を打ち立てるため、日本国が中 国に指導国家としての強いリーダーシップと権 益を確立しなければならない。そのために戦う 兵隊たちを病気から救い健康を保持するために 特に寒冷地における“戦陣医学”の研究が必要 である」として石井部隊が創られた。「捕虜た ちはどうせ死ぬ身だ。それなら医学に貢献して から死んだほうがまだましだろう」と理屈づけ たのである。

満州に旅し、731部隊に関するシンポジウム を聞いて、今後の医師としての自分が深めるべ きテーマが見えてきたように思う。

歴史から学ぶ

この満州の旅から沖縄に帰って考えてみた。「歴史から学ぶ」と、中学・高校生のときから 教育され今に至っているが、政府の教育機構の 総元締めである文部科学省ははたしてその立場 に立っているのだろうか? 近代史における事実 を、特に中国・朝鮮での出来事の事実を子供た ちに教えているだろうか?

知り合いの20代前半の女性は(もちろんウチ ナーンチュ)は、北朝鮮による拉致と核弾頭開 発を激しく攻撃し「アメリカも日本も軟弱だ」 と息巻いていたが、戦前の日本(人)による朝 鮮支配と、朝鮮の子女を“強制的に”慰安婦に させた事実をまったく知らなかった。私が少し ばかり説明したが、別世界の話かと全く興味さ え示さなかった。日本の発電力の3割が原子力 発電であることはもちろん、アメリカが数万発 も核弾頭を持っていることも知らなかった。

10年以上も前に、あるクリスチャンの若い女 性が「(沖縄の)アメリカの海兵隊の兵隊は若 いのに、私たち(沖縄)のために生命をかけて 戦っているのね。感謝しなくっちゃ」と平然 と、かつ真剣に意見した時には、私の瞳孔はピ ンになり、一緒にとっていた食事の味が瞬間に 砂漠の砂のように感じられた。彼女たちがアメ リカ兵の多い教会に通っていたことは別にして も、彼女は、沖縄戦はもちろん沖縄の基地の成 り立ちについても知らなかった。米兵による犯 罪は知っていたが、彼女の許容範囲であっただ ろう。

今また、歴史認識をめぐって沖縄戦での集団 自決に対する軍命の有無、慰安婦問題で朝鮮子 女の強制連行の有無で今までになかった揺れが 起こっている。一般論を言えば歴史の「正史」 は常に権力者が作る。沖縄戦の体験も風化し始 めている昨今、“歴史から学ぶ”努力が簡単で はないと感じるこの頃である。