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「博多時間、うちなー時間」

大屋祐輔

琉球大学医学部附属病院第三内科
大屋 祐輔

私は学生時代を福岡市で過ごしました。福岡 は田舎と都会がほどよくミックスされた町とさ れていますが、私の学生時代もそのような感じ でした。東京から新しい情報やものが次々と入 ってくる一方、人々はゆったりと暮らし、人情 に厚く、過ごしやすい町と言われていました。 飲み屋街では夜中の12時を過ぎても人で賑わ い、ふらふらと彷徨っていてもあまり危険を感 じない町でした。だだし、困りものは朝夕の市 内の渋滞でした。その当時の福岡市では、人口 とマイカーの増加で渋滞が広がり、そのため邪魔者にされた市内電車が廃止され、主な手段は バスとマイカーとタクシーだけとなっていまし た。そのバスも遅れてくるのはあたりまえで、 運転手の愛想も悪く、それらがバス離れとマイ カーの増加を引き起こし、渋滞に拍車をかけて いました。また、停留所で待っている人たちは 並びもせずに(いつ来るのかわからないバスの ためには並ぶ気持ちにはなりません)、バスが来 たとたん、わっと乗車口に押し寄せ、東京や大 阪からの転勤者たちから苦い顔をされていまし た。また、渋滞のためなのか、“博多時間”と いうものがあり、ビジネス以外で30分遅れるの は、しょうがないという雰囲気がありました。

この渋滞を何とかしようと計画されたのが地 下鉄でした。最初は、この定時性に優れた乗り 物が町の状況や市民の生活を大きく変えると思 っていた人がどれだけいたでしょうか?少なく とも、学生だった私や私の回りの人たちに、そ んなことを考えていた人は全くいませんでし た。また、地下鉄は階段を使い地下の駅まで降 りなければならないから、そんな、めんどうく さい乗り物は、やや短気な福岡・博多の人には なじまないとも言われていました。ところが、 昭和56年から福岡市市営地下鉄が運行される と、市民の生活は変わり始めました。地下鉄の 乗客は年々増加を続け、地下鉄の駅の周辺に は、マンションが次々と建ちました。マイカー 通勤から地下鉄通勤に変える人も増えました。 これらは、当然予想されていたことでしたが、 しばらくすると、人々の行動に変化が現れ始め ました。たとえば、飲み屋街では、最終地下鉄 の発車時刻のあとは、人通りが急に少なくなる ようになりました(バブルも崩壊しましたが)。 また、地下鉄の乗車もバスと同じように我先に 乗り込んでいたのが、1年2年が過ぎると、列を 作って整然と乗車するように変わりました。そ して、驚いたことに博多時間が通用しなくなっ てきました。徐々に会合が時間どおりに始まる ようになってきたのでした(もちろん、遅刻の 人も多いですが)。これらをもって、世知辛く なった、昔の福岡・博多の風情がなくなってし まったと悲しむ声も多かったのですが、その流 れは途絶えることなく現在まで続いているよう です。

平成15年に那覇市にモノレールができたとき に、私はこの福岡での経験を回りの人たちにお 話し、市民の生活にも変化があるかも知れない と言っていたことがありました。しかし、何も 変わらないよ、との反応がほとんどでした。そ うだと思います。私も福岡市に地下鉄ができた ときには、何も変わらないと思っていました。 ところが、先日の新聞に、モノレールが開通し て3年半が過ぎ、モノレールの乗客が確実に増 えていること、お酒を飲んでいても最終モノレ ールで帰宅する人が増えたこと、乗車の際に列 を作るようになってきたことが書いてありまし た。そうなると、「うちなー時間」はどうなるの でしょうか?しっかりとそれになじんでしまっ た私にとっては、気がかりの一つであります。