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ヤンバル縦走サバイバルキャンプの思い出

上江洌良尚

豊見城中央病院腎臓内科
上江洌 良尚

先日、家族と北部をドライブしていたら、ふ と学生時代の思い出が甦ってきた。もう四半世 紀も前になってしまったが、若い頃の無謀さを 懐かしく思い返した。私は昭和56年に琉大医 学部の1期生として琉大に入った。教養時代に は時間は余るほどあったので、友人の誘いで何 気なく、とある全学の部活に入った。そこはい ろいろなアウトドア活動をする部で、夏と春の 長期の休みになると、南北日本アルプスや屋久 島、霧島などへ登山に行ったり、西表を横断し たり、また洞窟探検に行ったりする等、結構体 力的にはしんどい遠征をするのがメインの活動 であった。普段は長期休暇の遠征に備えて、ジ ョギングや筋トレをして基礎体力をつけるのが 日課であった。

1年生の春休みに初めて遠征に連れて行って もらえることになった。自分は「さあどこへ行 こうか」と考えあぐねていたら、1年先輩のK 先輩、S先輩が声を掛けてきた。彼らの計画は、 ヤンバルを1週間かけて縦に踏破し、ヤンバル の山々をすべて登頂して、辺戸岬まで辿り着こ うというものであった。先輩の説明によると、 「アルプスや屋久島はしんどいぞ、それに比べ てのヤンバルは所詮沖縄の中だし、もし道に迷 っても、東か西に突き進めば、東海岸か西海岸 のいずれかに出られるので心配ない。」というものであった。あまり深く考える事もなく、自 分ともうひとりの新人N君は、誘われるままそ のチームに入ることになった。しかし、後に知 ることとなるのだが、この計画はかつてない無 謀なチャレンジであった。ヤンバルのジャング ルの中には当然ハブがいる。ハブに咬まれたら どうするのかと先輩に聞くと、「なに、タイヤ のチューブを切って足に巻きつけて行くのさ。 たとえハブに咬まれたって牙は足までとどかな いさ。」という返事だった。何となく安心した が、さて、それで本当に大丈夫なのかどうかは 定かではなかった。出発の日がやってきた。塩 屋湾の入り口から先輩2人と1年生の我々2人の 4人が重いザックを背負ってヤンバルの森の中 へ入って行った。そもそもヤンバルを縦に縦断 するルートなどあるわけがない。けもの道があ ればまだいいほうで、全く道も無い、ただのジ ャングルのなかを突き進むのである。道は無い のであるから、藪こきといって、とにかく鬱蒼 と茂った木々の中を突き進み、木をかき分け、 または乗り越え、岩場をよじ登り、丘を越えて ただただひたすら歩き続けるのである。方位磁 石と簡単な地形図をコピーしたものだけが頼り で、とにかく北に進む。ほとんど自分達がどこ にいるのかよくわからない状態で、先輩達の勘 が頼りの世界。そして、ただヤンバルを縦走す るのではなくヤンバルの山を全て踏破するのが 目的なので、目的の山と思われる所をめざして 高いところへどんどん登って行く。普通の山道 ではないのでとにかく疲れる。木が邪魔して前 に進めないため、その木を乗り越えていく。少 し進むのにも時間がかかる。大変なことになっ てしまったとそのとき初めて現実の厳しさに気 づき後悔したがもう遅い。そこはジャングルの 中で後戻りはできない。前進あるのみである。 出発時には腰にかけていた水筒に水を満たして 持っていったが、当然すぐに空になる。その後 は、川や小さな沢をみつけて水を補給していっ た。さすがに、先輩二人は勘がするどくて、歩 きながら「あそこで水の音がする」とか言って 行ってみると実際に小さな沢が流れていたりし て、どうにかこうにか水を確保していた。しか し、3日目になってまったく水源を見つける事 ができなくなってしまった。いくらさがしても 水源が見つからない。焦った。とにかく前進し ながら水源を探し続けた。でもやはりない。し ばらく歩いていくと、地面に水溜りがあり、イ モリが何匹か這っていた。4人で顔をみあわせ た。「もうこれしかないぞ。どうする?」。しば し沈黙の後、「飲むしかないな」先輩がおもむ ろに言った。われわれは地に這いつくばって、 窪みに溜まってやや濁っているその水を吸い込 んだ。味は不味かったが、激しいのどの渇きに は替えられなかった。かつてベトナム戦争の映 画かなんかで見たようなシーンだなと思った。 まさか自分がこんな泥水を飲む事になるとは! 究極の選択であったがもはやそれしか道はなか った。その時から、もうなにも怖くはないと開 き直った。

行程中実際に何度もハブに遭遇したが、大 概、相手が逃げていった。ヤンバルのジャング ルの中はまさにハブの巣窟であって、そこらへ んをうようよしていた。一度、身も凍りつくよ うな場面に遭遇した。例によってジャングルの 中を突き進んでいると、しだいに小さな沢を上 っていく状況になった。そこ以外には前進する ルートはなく、両側は切り立った絶壁で、幅 1m程度でやっと歩けるところを見つけて前進 していた。ふと見ると、前方にとぐろを巻いた ハブが堂々と鎮座しているではないか。結構大 きいハブでのびれば2mはありそうな立派なヤ ツであった。丁度われわれが進もうとしている ところの脇でとぐろを巻いている。逃げる様子 は全くない。これには参った。後戻りしよう か?でも後戻りして別のルートを探すにはかな りの時間を要する。日が暮れてしまうかも知れ ない。かといって前方にはハブがいる。咬まれ たら大変なことになる。もし咬まれたら、毒を 吸い出すキットは持っていたが、それは気休め 程度のもので、早く病院にかかって処置をしな ければならない。ここからどうやって人気のあ るところまで行けるのかはわからないが、そこに辿り着くまで、恐らくまる1日はかかるだろ う。咬まれたらまずお終いだ。僕は医者になる ために大学に入ったばかりなのに、こんなジャ ングルの中でハブに咬まれて死ぬわけにはいか ないと動揺した。どうしようか?しばらく悩ん だ後、前進することに決めた。できるだけハブ を刺激しないようにそっと歩く。前方だけを見 て決してハブと目をあわせてはならない。我々 は無害ですよとハブに態度で示して、そーっと そーっと刺激しないように一人ずつハブのそば を通過した。ハブとの距離は本当に50cm程度 であったろう。ハブに我々の願いが通じたの か、どうにか襲われることもなくその場を通過 することができた。皆、心底ホッとした。

その後、再び前進を始めた。岩場に差し掛か り、一人ずつ、岩場を上っていくと先頭の先輩 が踏みつけた岩が落下して、後方にいた僕の左 足を直撃した。強い痛みが走った。「やばい」 と思い、靴をぬいで見たが、打撲だけであり骨 折はしていないようだった。表面の硬い登山靴 を履いていたのが幸いした。普通の運動靴だっ たら足の骨を骨折していただろう。まだ、運は こっちに身方しているようだ。その日は結局、 自分達がどこにいるか皆目検討がつかなくな り、日暮れ前に少しのスペースをみつけてテン トをはった。皆、心身ともに疲れ果てていて、 表情は暗く会話もまばらだった。このまま遭難 してしまったらどうしよう。不安を感じながら も持ってきたレトルト食品を温めて食べた。そ の後、いつしか深い眠りに落ちていた。

翌日も早く起き、テントをたたんで、とにかく 北へ進んだ。しばらくして小高い山が見えてき た。与那覇岳だ。やっと自分達のいる位置が大体 どの辺りであるかがわかり胸をなでおろした。

その後、1年生のN君は、疲労困憊してしま い、発熱となにやら訳のわからない皮疹が出て これ以上の同行は困難となった。幸い、半日歩 いたところで北部横断道路に出た。久しぶりに 車を見て文明に接した感じでほっとした。そこ から彼はヒッチハイクで家まで帰る事になりそ こで別れた。その後は、先輩2人と自分の3人 だけの行程となった。自分も疲労困憊していた が、何も考えず先輩の後をただただひたすら歩 き、木を乗り越え、藪をかきわけて進んだ。途 中いろいろあったが、とうとう7日目にしてや っと辺戸岬まで到着した。

玉辻岳、赤又山、伊湯岳、与那覇岳、照首 山、フェンチジ岳、西銘岳。ヤンバルの山はほ ぼすべて踏破した。標高は全然大したことはな いがそこに至るまでは大変だった。本当に疲れ 果てたが充実感は十分にあった。

その後、解剖実習が開始となって退部せざる を得なかったが、専門学部に進んでからも、夏 休みには現役部員に同行して西表島を横断した り(このときはヒルに食いつかれしばらく血がと まらなかった)、八ヶ岳、屋久島の登山をさせて もらったりした。医師になって早20年。毎日多 忙でキャンプなどに行く時間は全くなくなって しまった。学生時代の無謀な経験は今では決し て味わえない青春時代の貴重な思い出である。