くらはし整形外科クリニック 倉橋 豊
私は、勤務医を20年以上経験し、約1年半前 に宮古島で開業しました。20年前、神奈川こど も医療センターで私の患者だった子供達数人 が、今、研修医になって活躍しています。研修 中の悩み事や恋愛事などをメールで報告してき ます。彼らは、今でも長期間の辛い闘病生活の こと、私が主治医でどんなことを話したのかよ く覚えています。この原稿は、研修医はじめ若 手の医師にエールを送ろうという主旨です。し かし、後述のように研修医時代は辛い思い出ば かりであまり励ましになるような内容ではあり ません。しかし、今は、医師になって本当に良 かったと思っています。勤務医後の開業は第一 線を退いたように思われるかもしれませんが、 今の私は、若い研修医に負けないぐらい勉強 し、向上心に燃えています。医師は自分の努力 だけでなく、周囲の人々から育て上げられてゆ きます。多忙な毎日で疲労困憊の方も少なくな いとは思いますが、もう少し頑張って一人でも 多くの方にできる範囲内の医療を提供していっ て欲しいと思います。
私は、島根医科大学(現島根大学)を卒業 し、漠然と脳外科になろうと思っていました。 いきなり入局すると、他の分野を知らない偏っ た医師になることが予想され、入局を決めない で外科系を履修できる大学を探しました。横浜 市立大学は、当時珍しく全国から広く研修医を 募集しており応募しました。脳外科、麻酔科、 第一外科、整形外科を2年間で履修しました。 脳外科、麻酔科、第一外科は今思い出しても厳 しい研修でした。重症の方が多く、ほとんど病 院に泊まり込み、睡眠時間週20時間と言う時も あり、四季の移り変わりがわかりませんでした。 厳しい先輩には殴られることもあり、でも自分 の実力では怒られて当たり前と言うことで、毎 日が必死、臨床ドップリの研修医時代でした。 当時携帯電話はまだ一般的でなく、急患手術の ため、クリスマスイブにデートの約束をしてい た彼女を雪の中4時間も待たせたことをほろ酸 っぱく思い出します。また、研修医時代に辛か ったのは金銭面です。給料は8万円、バイトが 忙しくてできない、ボロアパート代4万円、東 京ガスに給湯器に危険のシールが貼られお湯が でない、研究熱心な先輩には当時で40万円もす るコンピューターをローンで買わされ、マクド ナルドの時給の方が高いのを知り、哀しい思い をしました。研修後の進路に関しては、生命が 危機に陥っている状態から回復させる全身管理 のおもしろさ、直接病巣をみて加療できる外科 に最も惹かれましたが、結局最も勤務が楽そう な整形外科に入局してしまいました。このよう にあまり楽しい思い出のない2年間でしたが、 臨床の基礎の基礎を形作る期間であり、先輩、 パラメディカル、ナース、患者様から厳しく叱 られたこと注意されたことは20年以上経った今 でも、私の医師としての倫理観、技術に息づい ていると確信します。もう一度、研修医をやり 直すなら、2年間という短い期間に、経験豊富 な先輩がいて、より多くのことを学べるやはり 厳しい教育環境で研修をしたいと思います。
研修後は給料が上がりましたが、やはり勤務 条件は良くありませんでした。当直は連続勤務 36時間に及びますが、月に4から10回を20年間 にわたって行ってきました。労働条件違反、過重労働、残業代の間引きが普通のこととして行 われ、この実態を世間に公表しようとすると暗 に圧力がかかりました。このような状況を改善 する運動も行わず、後輩の皆様には先輩医師と して深く反省するべきところがあると思ってい ます。現在、世間でも騒がれ、徐々に改善され てゆくことが期待されます。
やがて、臨床医として独り立ちが始まりま す。といっても、経験が浅いと、毎日が緊張の 連続。これは、誰でも経験します。自分は勿 論、先輩や同僚や後輩の経験や失敗はすべて頭 の中にインプットします。臨床医としては、こ れが大きな財産となります。また、様々な先輩 達と出会います。私が、一生忘れられないの は、30代後半で出合った上司で、これは厳しい 先輩でした。後輩の前でも、ちょっとでも治療 が悪いと徹底的に注意され、プライドもどこか に飛んでいってしまいます。医師になって何年 かすると、自信がつき、ちょっと天狗になって しまう時期が何回かあります。でも、天狗の鼻 をポキッと折ってくれたこと、折られたことを 納得することは、私に、常に奢らず正直に、向 上する気持ちを植え付けてくれたと思います。
高度な検査機器が次々と出現してきます。し かし、基本的な診察技術は不滅です。整形外科 医だから聴診器は持たなくて良いと言われたこ とがあります。これに反発し、20年たつ今でも 聴診器を離しません。事実、多くの胸部疾患、 心疾患を見つけてきました。また、神経所見の 診断では、脊椎のどこかに異常があるはずだか ら、MRIを撮るという考え方が必要です。基本 的な診察法は、先人達の診断学の結晶です。診 断技術を高めるだけでなく、自分の身を守るこ ととなります。
医師になって、医師と患者という関係ながら も、もの凄く多くの人々と出会いました。人間 には、自分の常識という範囲があります。さら に、常識外という範囲があることも他人からの 話や小説等で予想できます。しかし、その常識 外のさらに外があることに気がつきます。この常 識外のさらに外側の世界を知ることは、一般の 職業ではあまりできないことだと思います。知る ことが、いいかどうか判断は難しいところがあり ますが、私はこの世界をみれたことが良かったと 思います。抽象的でわかりにくいかもしれません が、自分の世界が広がった気がします。
開業すると、今までの整形外科勤務医として の自分は、手術適応の患者様を捜すことに重点 を置いていたことに気がつきます。開業したと きは、武士が腰から刀を失ったような気がし て、落ち着きませんでした。しかし、外来で来 られる外傷以外の疾患の多くは、複雑なメカニ ズムで発症します。例えば、ランナー障害の鵞 足炎は、膝内側の疼痛を生じます。鵞足炎とい う診断は、ドミノ倒しでいえば、最後に倒れた 一枚を言い当てているに過ぎず、最初に倒れた 一枚を(根本原因を)言い当てているわけでは ありません。うーん、20年間整形外科してい て、まだこのレベルかと情けなく思う毎日で す。しかし、このような診断治療技術を何とし ても手に入れ、新しい刀にしようと思います。 このように、自分の医学には、なかなかゴール はやってきません。毎日毎日の積み重ねが自分 の診療の技術となってゆくのでしょう。私も開 業医1年半。もう一度研修医のつもりで診断能 力、治療技術の向上に再スタートしたところで す。医学は奥深く、どこまでも進歩してゆき、 なかなか追いつけません。我々、臨床医は若 手、ベテラン関わらず、お互いに、謙虚に、正 直に、向上心をもって、疾患や患者様に向かい 合い、成長を続けてゆきましょう。きっと医療 は自分の天職となってゆくでしょう。