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医者冥利に尽きる

源河圭一郎

国立沖縄病院名誉院長 源河 圭一郎

先頃、私は京都市で行なわれた医学部卒業45 周年記念クラス会に出席し、懐旧の情を新たに した。この45年間に私が専攻する呼吸器外科 領域の対象疾患は大きな変貌を遂げ、衰退著し い肺結核外科に代わって日本人の死亡原因第1 位に躍り出た肺癌が現在、直面する最大の標的 疾患である。医学・医療の進歩も著しく、気管 支ファイバースコープの開発、CTに象徴され る画像診断の進歩、胸腔鏡手術の普及など枚挙 にいとまがない。

今までにさまざまな患者の治療を経験した が、いつまでも記憶に残るのは、治療がうまく いかず、苦労した患者の辛い思い出ばかりであ る。そんな中で何事も無く良好な術後経過をた どった一人の患者に関するささやかな経験を紹 介したい。

昭和30年代後半に呼吸器外科医師としての スタートを切った私は、当時の京都大学結核研 究所外科療法部(現・京大医学部呼吸器外科) に入局して多数の肺結核患者を受け持ち、今で は全く行なわれなくなった胸郭成形術や空洞切 開術などの肺結核外科手術の手ほどきを先輩医 師から受けていた。そのような日常の中で私は 30歳代の男性の肺結核患者を担当した。ベッド サイドに足繁く通い、採血に始まって血球算 定、血液像、結核菌塗抹、呼吸機能の各検査に いたるまで臨床検査技師に任せることなく、主 治医自ら行なうことが当たり前の時代で、医師と患者との関係は必然的に濃密なものにならざ るを得なかった。

しかし当時はインフォームドコンセントとい う概念も言葉も無く、医師にすべてを任せるパ ターナリズムが医療現場を支配していた時代で ある。古典的な硬性気管支鏡を使って気管支切 断予定部位を観察した後、長石忠三教授の執刀 で右肺上葉切除術と補足胸郭成形術を遂行し た。術中・術後とも順調に経過し、抗結核化学 療法をしばらく続けていた。

見舞いのため毎日のように病室を訪れる夫人 は妊娠中で、お腹の大きさがかなり目立ってい たが、いつも甲斐甲斐しく病床の夫の世話をし ている姿があった。

退院の日が来た。病棟看護婦と共に病院玄関 で患者と夫人を見送った私は、いつしかこの患 者の事を忘れていたが、ある日、夫人から一通 の手紙をもらった。その内容は次のように書か れていた。「主人の退院後に男児が誕生しまし た。主人と相談の上、先生の名前をそっくりい ただいて、圭一郎と命名しました。」

駆け出しの未熟な医師として、偶然に担当し た患者からのこの知らせに私は驚くと共に、医 者冥利に尽きる思いで胸が熱くなった。重症患 者が多く、結核菌との悪戦苦闘の連続だった当 時のささやかなエピソードに過ぎないが、今で も一陣の涼風として、記憶に残っている。あの 時に生まれた圭一郎君は、すでに40歳前後にな っていると思われる。

昨今のように医療不信という言葉がマスコミ の間で飛び交う状況はまことに憂うべきであ り、あらためて医療の原点である医師と患者の 関係とは何かを考えてみたい。