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最近思うこと

平田晴男

平田胃腸科・内科  平田 晴男

早いもので、医師になって今年で23年目を迎 えた。振り返ってみると、中部病院での研修医 時代は、病院の宿舎に寝泊りし、早朝から深夜 まで、救急外来・入院患者の対応に追われ、ヨ レヨレの白衣で、病院内を走り回ったものであ った。大学で学んだ教科書的知識は、実際の患 者様を目の前にすると全くの無力で、毎日が医 師としての新たな勉強・試練の連続であった。 研修1年目(インターン)で、最初にローテー ションで回った部署は、救急センターであった。 初日に、若い男性が救急車で、腹痛〜背部痛で 搬送されてきた。何を、どうしていいかわから ず、頭の中が真っ白になり、血管確保もできず、 先輩医師やナースにどやされながら、ただ、先 輩医師に言われるがまま検査・処置したことを 思い出す。(ちなみに患者様は、尿管結石であ った)。いろいろな、症例の積み重ねや先輩医 師・ナースに怒られながらも、1年たつと、そ れなりに医師としての知識・技術が身について いくことが、実感できた。体力・気力とも充実 した時であった。季節感の乏しい病院の中で、 今でも思い出すのは、夜の8時頃、病棟回診中 に遠くからエイサーの太鼓の音がかすかに聞こ えたり、手術室で若い女性患者の日焼けした水 着のあとを見て、「夏なんだなー」としみじみ感 じたことである。仕事が一段落した深夜、同期 の仲間と連れ立って、中之町の酒蔵で、遅くま で飲み明かしたのもいい思い出である。

卒後、3年目に、初めて、診療所勤務を命じ られ、渡嘉敷診療所に赴任した。毎日、戦場の ような中部病院から、1 日10 人余の外来患者 で、しかも大半が、高齢の慢性疾患の患者。最 初の頃は、戸惑いと、(同僚の医師は、忙しく 働きながら知識や技術を習得しているだろうと思うと)医師としての焦燥感にかられたもので あった。今でこそ、ITが発達し、どこにいても インターネットを介して情報を共有できるが、 当時は、そのようなものも、まだまだ普及して おらず、一人で悶々としていたこともあった が、そんな私に気遣って、自宅の玄関に朝早 く、そっと採りたての野菜を置いていったり、 新鮮な魚をもらったり、何かと気遣ってくれる 島の人々の優しさに触れ、医師として最も基本 的な人と人の繋がりを培ってくれた。島では、 小児から老人、内科はもちろん、縫合や、簡単 な骨折の処置などの外科的なこと、皮膚疾患、 溺水やハブ咬傷、交通外傷などの救急疾患、痴 呆や精神障害の患者の相談、又、予防接種や健 康教育、往診(在宅医療:寝たきりや、末期が ん患者)等、総合的な医療全般の知識が要求さ れる。そこには、先端的な医療機器もなけれ ば、病院のように、オーダーすれば、誰かがや ってくれるわけでもない。すべて、自分の力量 にかかっている。その後、中部病院に後期研修 に戻り、消化器科を選択した。一日中、救急室 に待機し、吐血・下血患者を見つけては、今は 亡きY先生を呼び出しては、自分も検査に加わ って、内視鏡を勉強させてもらった。その後、 多良間診療所、久高診療所(那覇病院と併診) に赴任し、縁あって、浦添市のU総合病院に、 内科・消化器担当として、就職した。消化器、 特に内視鏡の分野では、今までの浅い知識・技 術では、到底専門と称することはできず、積極 的に学会発表を行ったり、琉大のK先生の担当 日に、できるだけ時間を作って下部内視鏡の検 査を見学させてもらい、大腸疾患を勉強させて もらった。又当時の病院長であったT先生の配 慮で、私立病院では始めて、県人材育成財団よ り、国内派遣研究員として、国立ガンセンター で勉強させていただいた。10年間、U総合病院 で専門医として、働かせてもらったが、平成13 年9月、より身近な専門医を目指し、那覇市の 新都心で開業した。開院時は、台風のたびたび の来襲や、アメリカ同時テロ、株価の大暴落に も見舞われ、この先どうなることかと心配であったが、いいスタッフに恵まれたことや種々の 方々の応援もあり、少しずつではあるが、外来 患者数、検査件数も増え、現在にいたっている (4年半で、上部内視鏡検査3,200件余り、下部 内視鏡検査1,400件余り)。振り返ってみると、 およそ10年を節目に、新しい船出をしているよ うに思える。来年からは、県立南部医療センタ ー・こども医療センターの臨床協力施設とし て、研修医を受け入れることとなった。

これからも、試行錯誤を繰り返しながら、決 して独りよがりにならず、地域に認められた自 分なりの医療を、行っていければと思う。