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レトロ

屋良朝雄

那覇市立病院小児科  屋良 朝雄

最近、梶尾真治の「黄泉(よみ)がえり」、 重松清の「流星ワゴン」、浅田次郎の「地下鉄 に乗って」など、亡くなった人たちが蘇った り、過去の時空をさまよったりするような内容 の、いわゆるレトロ調の文庫本に、結構はまっ ていた。それが関係あるのかどうかわからない が、十数年もダンボール箱に閉まっておいたレ コードたちが懐かしくなり、久々に取り出して みた。レコードプレーヤーはすでに処分してた ため、電化製品店で廉価なプレーヤーを新たに 購入した。久しぶりにレコードに針を落とす瞬 間は何とも言えぬ感慨深いものがあった。同時 に様々な事柄が走馬燈のごとく蘇ってきた。

もう何年が経ったのだろう。あの喧騒と緊張 感が漂うような日々よ。

実家は、悪名高き(?)コザの中の町の、空 港通り(かつての第二ゲート)に面した一角に あり、そこでビリヤード場と氷店を営んでい た。周りは喧騒な飲み屋街で、外人や酔っぱら いの罵声が響き、ジュークボックスからは流行 りの音楽(今となってはオールディーズ)が必 要以上の音量で流れていた。こんなところで、 少し屈折した青春時代を過ごした。飲み屋街、 紫のディープなロック、コンディショングリー ンの狂気沙汰、喜納昌吉のハイサイおじさん、やーさん、客引きボーイそしてヤンキーたちが うろつき、何はともあれ、活気はあった。浪人 時代や大学の帰省時には、時々、ビリヤード場 の手伝いをしていた。店は、外から丸見えのオ ープンな作りであったためか、陰湿感は余りな く比較的気軽に人が出入りした。界隈のたまり 場となり、様々な人たちが店に立ち寄っては、 ゲームに興じたり、プロ(お金を賭けたハスラ ーたち)のゲームを見物したり、雑談したりと いわゆるコミュニティ??のような空間を造っ ていた。景気が良かったせいもあるが、そこ は、コザの凝縮版の如く、うちなーんちゅ(沖 縄人)以外に、多くの外人たち(アメリカ人、 インド人、中国人、フィリッピン人など)が出 はいりしチャンプルー化していた。近くでけん かなどがあると(外人とのいざこざが日常茶飯 事であった)、キュウ(玉突き棒)を持ったま ま現場に駆けつける輩もいて、凶器にならない か、折られはしないかなどと気をもんだもので ある。一方、プロ達のゲームは、しばしば芸術 の域に達しており、玉を打つ(ショット)瞬間 の沈黙は厳かであり、彼らは実に格好が良かっ た。ラック(玉の並べかた)が悪いとせっかく の勝負に水を差すことになり(ビリヤードのわ かる人は理解できるはず)、仕事とはいえ冷や 汗をかきながら玉を並べたことを思い出す。私 自身はビリヤードでの賭けはしなかったが、ひ とりで来た客(ほとんどが淋しい外人)を相手 に、その人に勝った時だけ料金を払ってもらう ルーズペイという方法でプレイをしていた。一 方ビリヤード場は、そこに出はいりする雑多な ヒト・・達を興味深く観察しうる空間でもあったよ うな気がする(結局のところ、ヒト・・ に有意差はないと思った)。いろいろと想い出の多いビリ ヤード場ではあったが、1978年頃、わが親父は あっさりと店を畳んだ。

それからしばらく経った頃から、北谷などの近隣町村の発展に反比例するように、旧市街地 である中の町は次第にゴーストタウン化してい った。世の哀れみを感じていたが、数年前から コザの再活性化を目的に、音楽や芸能そして国 際性を前面に押し出した「中の町ミュージック タウン整備事業」のアドバルーンが打ち上げら れた。当初はその計画に反対していた頑固な親 父も仕方ないかとあきらめ、結局のところ、予 定地の一角を占めるわが実家も立ち退くことに あいなった。工事が始まっているらしいという 噂にも、なかなか足を運ぶ気になれなかった が、最近久しぶりに実家跡地へ行ってみた。す でに跡形もなく取り壊され、さら地になり、そ こにはいくつかの重機が置かれていた。さすが に云いようのない悲しみを覚えた。ゴーストタ ウンなら、まだ語れる術もあるが、町の面影が 完全になくなった今、もうどうしようもないの である。ひとつの物語は間違いなく終焉を迎え るであろう。人の記憶もいよいよ曖昧でどんど ん失われてゆくに違いない。

あれは何だったのだろう。うちなーんちゅと 外人たちが、お互いを小馬鹿にし合いながら、 適当にやっていた絶妙なバランスよ。それは、 あの頃あの町にどっぷり浸かっていた人々が感 じた不可解な感覚だったのだろうか。さて、過 去を懐かしむ機会が増えている今日この頃では あるが、どんな意味があり、どんな落としどこ ろがあるのだろう。あれから、自分は頑張って きただろうか?今は充実しているだろうか?あ とどれくらい働けるだろうか?そんなことを考 えながら、ノイズの入った懐かしのレコードに 耳を傾けている。

1970年12月20日、あのコザ騒動があり、家 の前の道路でも、外人車が赤々と燃えていた。 高校二年生の私は、複雑な想いで見やってい た。遠い遠い昔のことである。