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わが青春のカタルシス

城間昇

しろま小児科医院  城間 昇

ゴールデンウィークに乗り合わせたANA の 機内誌に、中国の有名起業家が座右の銘として いる老子道徳経の一節が紹介されていた。「大 成若欠 大直若屈 大巧若拙 大弁若訥」

「真に完全なるものは欠けたところにあり、 真に真っ直ぐなものは曲がっているかのよう。 真に巧妙なものは下手くそに見え、真に雄弁な ものは口下手である。」
ものを見たり考えたりするとき既成概念や固定 観念に縛られるな、ということか。

選択・決断の連続と表される人生においても 然り。個人は「歴史」という大海のうねりの上 を漂う一枚の葉っぱにすぎない。個人は大きな うねりの上で次々と展開される様々な局面に対 し、自分なりに見て考えて、選択・決断し行動 する。その「結果」が個人の人生模様となる。 したがってその模様を、何人たりとも予見する ことは出来ない。

各々の自分史を紐といてみて、今だから話せ る今だから許される青春の蹉跌があるのはおそ らく私だけではないだろう。私は、山口県の片 田舎に生まれ地元の高校を卒業する数ヶ月前ま で、世の荒波をさほど意識することなくのんび りと過ごした。ところが、である。東大医学部 インターン制度の見直しの要求に端を発した学 生運動が、団塊の世代の様々な矛盾を含みつつ 全国のキャンパスに飛び火し、くしくも大学受 験のその年(昭和44年)は、史上初めて東大 の入試が行われなかった(したがって同期の東 大入学者はいないのだ)。この年に限って言え ば「ドラゴン桜」の話は、はなから成り立たな かったのである。世の中で戦争以外にも起きて はならないことが実際起こったことを目の当た りに見て、このとき初めて人智ではどうすることも出来ない「歴史のうねり」というものをは っきりと感じ取った。そしてわれわれ団塊の世 代の受験生は志望校など選択することも出来 ず、声なき叫びを発しながら全国へ散らばって いった。私はといえば気がつけば南のK大学に 籍を置いていた、しかも法律学科に。よし、こ うなったら司法試験を目指したるでーと、仲間 8 人で勉強会をもった。コーク杯片手の討論 (ディベート形式)で夜が明けるのもしばしば だった。夏季休暇直前のある日、勉強仲間の一 人S君が「きょうで皆とお別れだ。俺、どうし ても医者になりたいんだ。」と言って我々の前 から姿を消した。彼以外にも2人、やはり医学 部を目指してキャンパスを去っていった。その 後も大学紛争はくすぶり続け、大学生活は自他 ともに混沌を極めた。私には無縁と思われた学 生運動も「沖縄返還」の四文字を突きつけられ ると無視は出来なかった。ある日機動隊に取り 囲まれながらジグザグ行動をとるデモ隊の真ん 中に、青ざめた顔の自分がいた。右隣の瞳のキ ラキラした女子学生の先輩が、機動隊のごぼう 抜き攻撃から私を守るべくぎゅっと固くスクラ ムを組んだので私の右ひじが先輩の柔らかい部 分に触れてしまい、その心地よい感触に軽い眩 暈と少々うしろめたさを感じながら「沖縄返 還!」と必死に叫んでいた。世間の隅々に至る まで月日は平等に過ぎ、大学構内も学生生活も それなりに落ち着いてきた。私は講義と勉強 会、それに軽音楽バンドでのギター練習に熱中 していた。そんな2年目の初冬のある夜、バン ドで一番人気の女子学生の誕生パーティで会場 の自室は盛り上がっていた。下心ありありの男 子学生(やんぬるかな、私もその一人だっ た・・・)が彼女を囲んで耳心地よい言葉を浴 びせかけていた。突然、「おい、助けてくれ。 一緒にゲバッテいたA君がM派のやつらに拉致 された。」と叫びながら全身血だらけのヘルメ ット姿の男が部屋の中へ倒れこんできた。すぐ さま抱き起こし覆面のタオルを取ってみると、 なんとクラスメートのS君だった。S君はK派の 熱心な活動家だった。拉致されたA君も同じクラスメートだった。そのころ学生運動は方針の 違いからいくつかの派閥ができていて、内部闘 争(内ゲバ)が絶えなかった。その夜もK派と M派の内ゲバがあり、A君が拉致されたらしい。 助けてくれといっても警察に届け出るわけには いかず(大学構内に機動隊が入ることは大問題 だったのだ)、かといって見殺しにはできない し、そうこう思い悩んでいるうちに「A君が可 哀そう。」と彼女が泣き崩れてしまった。その 光景を見て、私は即決断した「よし、彼女のた めにも」。酔いはすでに醒めていた。「エーイ ッ!」と自らに気合を入れて部屋から飛び出 し、大学めざして一目散に駆け出していった。 M派のアジトの灯りが近づくにつれ、だんだん 向かう足が重くなっていった。「ひょっとした ら僕もリンチに遭うんじゃあないか」そう考え 始めると背筋に冷たいものがはしり、一人で飛 び出してきたことを後悔した「おまえは彼女に いいところを見せたいだけなんだろう」。やっ とアジトの入り口にたどり着いたものの中に入 る勇気がなく、あたりをウロウロオロオロして いた。「中に入りきらんと?」いつの間にか後 ろにN君がいた。N君はバンドのメンバーで彼 女のとりまきの一人ではあるが気弱で、いつも 遠くから彼女を見ていた。「僕が入ろうね。」と、 彼はスタスタと何の躊躇もなく入っていった。 「ちょっ、ちょっとー。」私は慌てて彼の後を追 った。「すみませーん、誰かいませんか?」私 は隠れる場所もなく、彼の背後で震えていたよ うだ(そのように記憶している)。「彼はもう帰 したよ。」意外とのんびりした声が奥から響い た。「そうですか、ありがとうございます。」と 言ってそそくさとアジトを出た。外に出た途 端、極度の緊張から開放されてか足元がふらつ いた。「なんでありがとうなんや」咄嗟にそう 言った自分が情けなくて無性に腹が立った。 「彼に借りができたな」彼の勇気ある行動を認 めざるを得ず、すこし嫉妬した。そして不純な 動機からとった行動は決して結実しないことを 身をもって知り、そんな自分が無性に恥ずかし く情けなかった。その夜はどうしても部屋に帰ることが出来ず、行く先の見えない暗い道を泣 きながらどこまでも彷徨った。

その後、弁護士にはなれず社会人から一念発 起して医者になった。でもこんな大きな紆余曲 折がもとより計算できていたわけではない。人 生は選択・決断の連続である。しかし、信念と 努力なくして真摯な選択などあり得ない。