沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 8月号

『みかんの花咲く丘』

まちなと小児クリニック  新垣 義清

童謡歌手の川田正子さんが亡くなった。川田 正子といっても知っている人は少ないかもしれ ないが、我々懐メロ愛好家には忘れがたい歌手 の一人である。「みかんの花咲く丘」「里の秋」 などの名曲は多くの人が知っているだろう。現 役で活躍したのは終戦をはさんだ3〜4年ほど なので勿論私はレコードでしか知らない。しか し当時は全国的な大人気歌手で、南方戦線で玉 砕した兵士たちが、川田正子のプロマイドや写真の切抜きを胸にしのばせていたという逸話が 残っている。彼女の可憐な歌声に、故郷の妻子 や弟妹をおもいだし、つかの間の慰めを得たの だろう。敗戦が間ぢかに迫り東京が連日のよう に空襲にさらされていた頃、田舎への疎開を拒 み防空頭巾をかぶってNHKのスタジオに通い 続けていたという。「空襲警報の鳴らない日は あっても川田正子の歌わない日はない」当時の 人々はそう噂しあったといわれている。

正子の代表的なヒット曲の1つが「みかんの 花咲く丘」である。この歌には面白いエピソー ドがあるのでそれを紹介したい。登場人物は正 子と作詞家の加藤省吾、作曲した海沼実の3人 である。作詞家として身を立てようと上京して きた加藤はあまり芽が出ず、当時は音楽雑誌の 記者をして糊口をしのいでいた。敗戦から1年 後の昭和21年8月24日、取材のため東京の正子 の家を加藤が訪ねてきた。1時間くらいで取材 が終わり、帰ろうとした加藤の前に現れたのが この家に居候をしていた海沼実であった。海沼 は「この娘のために1曲だけ詞を書いてくれな いか」と加藤に頼んだ。東京のNHKと伊豆の 伊東市を結んだ2元中継放送をやるが、その時 に歌う正子の歌がまだできていないという。 「放送はいつだ」と聞くと、「明日」との答え。 いくらなんでもそれは無理だと加藤は断った。 しかし海沼は諦めない。「1回の放送に使うだけ だから気楽に書いてくれ」。それでも加藤が渋 っていると海沼は切り札をだしてきた。「実は 親戚から戴いた赤飯があるのだが、それをご馳 走するからぜひ頼む」。そして加藤の前に赤飯 を出してきた。当時は現在からは想像もできな いほどの食糧難の時代であった。赤飯なんて夢 の中でも食べることはできない(喜びのあまり びっくりして目が覚めてしまうから)。加藤の 心はぐらぐらと揺れた。ペンは剣よりも強し、 食欲は性欲よりも強し。加藤はついにこの禁断 の赤飯を食べてしまった。こうなればもう海沼 のペースである。押し付けられた原稿用紙と鉛 筆を手にして加藤はしばし黙想、幼い頃育った 伊豆の海の風景を思い出しながら書き始めた。 みかん畑と白い花、海、船と黒い煙、海沼の要 望する単語を散りばめながら3番の歌詞にとり かかる。「いつか来た丘 母さんと一緒に眺め たあの島よ今日もひとりで見ているとやさし い母さんおもわれる」この3番の歌詞にこそ加 藤の万感の想いが込められている。加藤の生家 は元来裕福な家庭であったが、小学校5年のと きに父親の事業の失敗で破産し両親は失踪。残 された兄弟もバラバラになり親戚の家に預けら れた。叔父の家で育てられた加藤は卒業と同時 に病気の祖父と幼い妹をかかえ、両親の行方を 捜しながら様々な職を転々として生計をささえ ていた。その時の彼の両親(特に母親)への思 い、バラバラになった家族への思いがこの3番 の歌詞に凝縮されているように思われてならな い。、後年モノクロのテレビの時代に、我々の 世代には懐かしい「怪傑ハリマオ」や「隠密剣 士」の主題歌を作詞した彼に不遇な自分自身の 少年時代と、テレビに群がる大勢の子供たちに 対する暖かいまなざしが感じられる。

出来上がった歌詞を渡された海沼には次の難 題が待っていた。曲が出来ていないのである。 この人は音楽家としては素晴らしい才能があっ たが、1個の社会人としては少し無鉄砲な性格 だったようだ。信州松代の和菓子屋の跡取り息 子だったが、子供の頃から憧れていた音楽への 夢が捨てきれず、妻子を置き去りにして東京へ 飛び出してきた。作曲だけで生計を立てるのは なかなか苦しく、当時は弟子である正子の家に 間借りをしていた。後に正子の母と再婚し2人 は義理の父娘の関係になる。受け取った歌詞を 持って大急ぎでGHQに行き検閲を受けた後、 海沼は正子と一緒に1便しかなかった伊東行き の列車に飛び乗った。伊東までは約2時間、列 車の中で海沼は必死になって曲想を練った。な かなかいいメロディーが浮かんでこない。時間 はどんどん過ぎていく。ふと若い頃バイオリン でよく弾いていたオペラの曲を思い出して口ず さんでいるうちに閃いた。「これだ!」。あの軽 やかな8分の6拍子の前奏が頭に浮かんだ。き っかけさえ出来れば後はプロの作曲家である。列車が伊東市に着いたときには曲は完成してい た。しかし難題がもう1つ、正子に教える時間 と場所がない。その夜泊まった宿には勿論ピア ノなんてない。海沼は正子と一緒に風呂に入 り、背中を流しながら出来上がったばかりの歌 を一生懸命教え込んだ。いくら相手が小学校6 年生の子供とはいえ、現在なら「セクハラ」と して大騒ぎになっているだろう。(古き良き時 代がうらやましいなんて口がさけても言えない が・・・)。翌日ラジオで放送された正子の歌 は大反響を呼んだ。1回の放送のために作られ た歌がレコーディングされ、国民的な大ヒット 曲となり今日に至るまで歌い継がれている。も しあの時に加藤の取材が1日でもずれていたら、 昼食の後に訪れていたら、あるいは海沼が赤飯 を全部食べてしまっていたらこの名曲は生まれ ていなかったに違いない。歴史に「もしも」は 禁句だといわれるが、「もしも」と勝手に想像 しながら夢を膨らませるのは楽しい。この面白 いエピソードを残してくれた3人も今は黄泉の 国の人になってしまった。そして歌だけが今で も歌い継がれているのである。

(敬称略。この拙文は加藤省吾著「みかんの 花咲く丘 わが人生」その他を参照にしました。)