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救急医として(2007年8月28日掲載)

阿部好弘(北部地区医師会病院)

救えなかった少女の命

医療質向上の大切さ実感

「先生! 交通事故による頭の打撲・挫創で救急搬入の八歳の女の子ですが、腹水がたまっているようなのですが、診てもらっていいですか?」と、救急外来の脳外科の医師からコールがあった。急いで救急外来に行くと、頭部の縫合処置を受けた女児が横たわっていた。交差点で母親と歩いていて車にはねられたという。血圧が触れず、出血性ショックの状態だった。

輸血のオーダーをしてすぐに手術室に向かったが、麻酔科の医師が、「血圧が低いので麻酔はかけられません」と言うので、「血圧が低いから手術をするんだ」と激しく応じた。一時、心停止になったが、心マッサージで心拍再開し、腹部の止血操作を終えることができた。一週間病院に泊まり込んで術後の管理をしたが、多臓器不全を来し、救命することができなかった。

当時、私は救急医としての修練を終え、外科医として手術に明け暮れる日々を送っていた。患者を亡くしたその悔しさがいつも心に引っかかっていた。専門の医師がたくさんいても、救急医療の質を上げなければ患者を助けることはできない、と痛切に感じた。救急搬入された患者に対し、全身を評価できる医師が対応すること、緊急を要する治療を優先選択できること、根治治療ができる実力を持つこと、病院側が普段から緊急に対応できる準備ができていること―これが目標になり、外傷外科医としての道を進もうと思った。

卒後十二年目に鹿児島で外科と救急の責任者となり、手術と救急、現場出動、洋上救急など、理想とする救急を求め無我夢中の仕事が始まった。当時、日本には外傷の教育システムがなかったため、香港でATLS(外傷コース)を受講し、その後オーストラリアのリバプール外傷センターに外傷フェローとして留学した。

帰国後は、外傷センターの整備を開始したが、病院の経営など、臨床と離れた仕事にも携わるようになっていた。当時、外傷患者を治療する中で、現場から病院までの搬送に一時間以上要し、患者が死亡する症例を何度か経験した。救急搬送には、ヘリコプターなどによる航空機搬送が必要で、現場に医師が赴き、早期に治療を開始することで、避けえた外傷死があることを実感した。

その後、救命救急センターに転勤し、救急体制の構築、救急の教育に専念していたが、救急ヘリの実現への思いが強く、もう一度、この身をささげる熱い救急をやりたかった。その時、沖縄の北部地区医師会の情熱ある先生方に接し、一緒に夢を実現しようと決意した。

北部地区は中・南部と違い、広大な土地に救急を受け入れる医療機関が少なく、搬送距離が長いため、外傷を含む重症な患者搬送に長時間を要している。また、産科・新生児の救急も受け入れ医療機関がないため、時間をかけて中・南部まで搬送している。循環器と乳児の死亡率は中・南部と比較すると高値だ。離島を含め豊かな自然に恵まれている北部地区には、医療の地域格差があり、救急医療もさまざまな問題を抱えている。それを克服し、北部地域の医療を充実させようとする熱い情熱を感じている。

全人的な医療の基本に救急医療があり、この沖縄の地で実現できたら、と思う。