身体障害や知的障害の方とは、病院に勤めていたころから身近に接していたので、大方の理解はできている、と思っていました。ところが昨年転勤し、現在の重症心身障害児者施設に勤務すると、重度の「肢体不自由」と「知的障害」を併せ持つことが「重症」を意味することを知りました。二十七年間、一般の医療機関で勤務していながら、重症心身障害児者の施設の様子を初めてうかがい知ることになりました。
入所・入園者は、生まれながらにして障害のある方もいれば、仮死分娩(ぶんべん)で知能に障害を負った方もいます。中途障害と呼ばれる、事故や心停止で脳に障害をきたした方もいます。施設で必要とされる医療行為は、ほとんどがひきつけを抑える薬を朝昼晩と飲んでもらうことです。中には気管切開を受けている方、栄養を補給する手段として胃瘻(ろう)を付けている方もいます。
こうした医療を受けていますが、私たちはその方々を「患者さん」ではなく「利用者」と呼んでいます。なぜなら、治療と並行して重視している生活の支援、つまり食事の介助や排せつ、入浴、着替え、運動、体位交換、レクリエーション全般、学齢期の方には隣接する養護学校への通学の介助の比重が大きいからです。
中でも、職員の少ない深夜の二時間ごとの体位交換は、床ずれをつくらないために欠かせない介護の一つで、九十人の利用者を四人の職員でこなすので多くの労力が必要です。今日、多くの医療機関では「患者様」と呼ばれているので今後「利用者」の呼び方も変わっていくかもしれません。
現在県内には四つの重症心身障害児者施設があります。名護療育園、周和園(沖縄市)、若夏愛育園(那覇市)と浦添市に私どもの沖縄療育園があります。
現在の施設は一九七二年に創設されましたので入所当時未成年だった方も今では高齢化が進み、平均年齢は三十五歳です。そのため施設の呼び名も「障害児・者」施設となっています。
日本で初めて重症心身障害児者施設ができたのは戦後間もなくのことでした。それまで社会が重症児者を手厚く保護するという制度がなく、「社会復帰が見込めない者に税金を使うことはできない」とする国の考え方に希望を失った親の中には、わが子を連れて自殺する者が現れました。これではいけないと考えた篤志家や医師が施設を造りました。それと並行して行われた強い働き掛けが実り、ついに国を動かし、今日では公費が給付されるようになりました。
創設者の心は「人の手を借りなければ生きていけないこの方々の役割は、社会が忘れかけている『人のために尽くすという人間性』を思い起こさせることである」としています。
国の福祉政策の厳しさの中で私たちにできることは、医療機関における新生児集中治療室(NICU)の長期入院患者さんを受け入れるなどの急性期医療との役割分担を忘れず、利用者の代弁者となってその生活を守ることだと思っています。
そのことが、ひいては家族が安心してわが子を見舞い、あるいは、家に迎えて家族交流を行い、仕事に打ち込めるようになることだと思います。